グラン・コロンビアの崩壊後は、
急進派(自由主義派)と穏健派(保守派)の対立抗争が続く

(『ラテン・アメリカ史』『コロンビアを知るための60章』から抜粋)

グラン・コロンビアが崩壊すると、帰国してきたサンタンデールが、1832年に大統領となった。

しかし、自由主義(急進派、改革派)と保守主義(穏健派、教会派)の対立が1861年まで続いた。

1837年にサンタンデールの後を継いだホセ・イグナシオ・マルケスは、法学者の出身だった。

39年に議会が修道院(教会)を弾圧すると、僧侶たちは反乱を起こして、全国は大混乱した。

41年に、軍司令官のペドロ・エランが大統領となり、教会に歩み寄って反乱を鎮めた。

エランの次に大統領になったトマス・モスケラは、進歩的な政策をした。

アメリカとの間に、「アメリカにパナマ地峡を横断する鉄道の建設を認める。その代わりにアメリカはパナマの中立を保障する」との条約を締結した。

パナマ地峡の横断鉄道は、1855年に開通した。

(当時は、パナマはコロンビア領である)

他にも、通貨制度の改善、奴隷貿易の禁止、教育の発展を行った。

改革派は「自由党」を結成(1848年)し、保守派もボリバル派と結んで「保守党」を結成(49年)した。

49年~54年まで政権をとった自由党は、地方分権化などの自由主義改革に取り組んだ。

1849年に、ホセ・イラリオ・ロペスが大統領に選ばれた。

彼は民主的な改革と反教会の政策をし、奴隷制は51年に廃止された。

51年に教会の特権を廃止すると、教会と親しい保守党は武装蜂起した。

この蜂起は鎮圧されたが、自由党は、改革を続けようとする「急進派」と、改革を止めようとする「穏健派」に分裂した。

急進派は商人によって構成され、穏健派は手工業者が占めていた。

保守党と急進派は手を結び、政府軍の削減などを進めた。

次の大統領となったホセ・マリア・オバンドは、教会と政府を分離する法律を制定し、言論の自由や個人の権利を保証する新憲法を制定した。
男子の普通選挙も実現した。

こうした諸改革に反対する保守派は、1854年にクーデターを起こした。

軍の削減に反発したメロ将軍が、自由党内の1グループと共にクーデターをしたのである。

オバンド大統領は逮捕されて、反動政治が57年まで続いた。

自由党内の混乱に乗じて、保守党は政権奪取に成功した。

そして57年に、保守党の創設者であるマリアノ・オスピーナ・ロドリゲスが大統領に就任した。

大統領になったマリアノ・オスピーナは、コロンビアを連邦制にして、各州に大きな自治権を与える事にした。

連邦主義への流れは強まっており、1858年に国名が『グラナダ連合』に変更されて、州が設置されて、州の連合国家となった。

しかし、カウカ州の知事になった元大統領のトマス・モスケラは、60年に「カウカ州は完全な自治権を持つ」と宣言した。
他の州もこれに倣ったので、コロンビアは大混乱となり、内戦に入った。

モスケラは首都を占領して、61年7月に臨時大統領となった。
そして、67年に違法行為を非難されて亡命するまで、モスケラの政治が続いた。

モスケラの自由党は、1863年に自由主義色の強い『リオネグロ憲法』を公布した。

そして国名も、『コロンビア合衆国』に改称した。

リオネグロ憲法は、武器の携帯の自由を認めていた。
やがて過度の連邦主義により、経済は停滞した。

(2013.11.24.作成)


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