内戦が続く中、1953年に、
ロハスが軍事クーデターを起こして政権をとる

(『コロンビアを知るための60章』から抜粋)

1946年のオスピナ・ペレス大統領(保守党)の就任から、58年の軍事委員会の終焉までは、2大政党の政治的な暴力によって、コロンビアは大混乱した。

この時期に、暴力によって25~30万人もの命が失われた。

この暴力の時代を、「ラ・ビオレンシア」と呼ぶ。
(ビオレンシアは、スペイン語で暴力の意味である)

1950年の大統領選挙は、自由党がボイコットしてしまい、保守党のラウレアノ・ゴメスが勝利した。

ゴメスは、カトリックの復活と中央集権化を強引に進めたため、自由党との内戦はさらに激しくなった。

ゴメスは51年に心臓発作を起こし、アルベラエスが暫定大統領となった。

その後、ゴメスは健康を回復したため、再び権力の座に就こうとした。

ゴメスは53年6月12日に、反ゴメス派で軍の最高司令官であるロハスを解任した。

翌日には、アルベラエスに大統領を譲るように迫った。

アルベラエスはこれを承認したが、ゴメスの強引な手法に反対する多くの政治家の求めに応じて、ロハスはクーデターを起こした。

そして、ロハスが大統領に就任した。

ロハスは、ゲリラを恩赦と引き換えに投降させる事に成功した。

さらに、インフレ抑制策、大規模公共事業の実施、TV放送の導入、初の女性閣僚の起用、初の女性投票権の認可、などを行った。

ロハスは、2大政党から距離を置き、自らの支持基盤を作ろうとして、「全国労働者の連合(CNT)」と「国民行動運動(MAN)」を結成した。

しかし、労働者に手厚い政策をしたが、支持を得られなかった。

(2013.11.26.作成)


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