(『コロンビアを知るための60章』から抜粋)
ロハス大統領のポピュリズム路線は、2大政党制を破壊しかねないため、2大政党は1956年から手を結んだ。
そして、彼らは『国民戦線(国民協定)』を作り上げていった。
ロハスの軍事政権に危機を感じた2大政党(保守党と自由党)は、1957年にスペインで党首会談を行った。
保守党のリーダーであるラウレアノ・ゴメスと、自由党のリーダーであるジェラス・カマルゴは、「超党派の協力体制」を作ることで合意した。
これが、いわゆる『国民協定』の成立である。
この協定は国民に支持されて、ロハス大統領は辞任し、1958年の大統領選挙で国民協定は勝利した。
この協定は、「2大政党の抗争によって、軍事独裁が生まれた。そして外部勢力に権力を奪われた」という2大政党の反省が、背景にあった。
国民協定は、『2大政党の枠組みで排他的に利益を占有する者達が、それを維持しながら共存していく仕組み』、とまとめられる。
国民協定の骨子は、次の5項目からなる。
① 4年ごとに、保守党と自由党から交互に大統領を選出する
② 国会などすべての立法機関の議員は、選挙結果に関わらず
両党で折半する
③ 閣僚や知事や高級官僚も、両党で折半する
④ 協定が効力を持つ期間は、他の政党を選挙に参加させない
⑤ 国会での法案の承認は、3分の2の多数をもってなされ
なければならない
(本当にとんでもない協定で、民主主義のかけらもない内容に驚いてしまう。)
この協定は、「1958~74年までの16年間に限って効力を持つ」とされた。
この協定は、反体制の勢力の台頭を阻止するためのルールであり、権力者間の談合であった。
1958年に大統領に選出されたのは、協定の生みの親であるジェラス・カマルゴだった。
以後、4年毎に、2大政党から交互に大統領が選出されていった。
4年交替が崩れたのは、1978年の大統領選においてである。
しかし、「折半の原則」は、80年代まで遵守された。
この体制は、何をもたらしたのか。
この体制により、2つのネガティブな状況が生まれた。
1つは「国民の政治への無関心」、もう1つは「国民の無力感の醸成」である。
この結果、武力による反体制運動(ゲリラ組織)が活発化した。
選挙の投票率は、30%台に低迷した。
(2013.11.27.作成)