グラン・コロンビアの崩壊とボリバルの死

(『ラテン・アメリカ史』『コロンビアを知るための60章』から抜粋)

グラン・コロンビアは、ヨーロッパのどの国も融資をしようとしなかったので、すぐに崩壊し始めた。

シモン・ボリバルは1825年末に、リマに戻った。
27年末には、ボゴタに戻った。

ボリバルは、より中央集権的な憲法を採用しようとして、連邦主義者のサンタンデールと対立した。

そこでボリバルは1828年に、副大統領のサンタンデールを解任して、独裁体制をとった。

その後、28年9月にボリバルは暗殺未遂事件に遭った。

この事件によって、サンタンデール派への締めつけは強まり、サンタンデールは国外追放となった。

ボリビアは、1825年にスクレを大統領にして、終身制の大統領を持つ中央集権国家になった。

しかし、隣国ペルーはボリビアの独立には反対で、ペルー軍はボリビアに侵攻してスクレに退陣を迫った。

スクレはやむを得ず辞職して、28年にはボリバルの部将だったサンタ・クルスが大統領になった。

29年にはペルーがエクアドルに侵攻するなどし、グラン・コロンビアは混乱した。

ボリバルは、30年1月に大統領を辞任した。

同年にベネズエラとエクアドルは、グラン・コロンビアから離脱し、グラン・コロンビアは崩壊した。

ボリバルは、ヨーロッパに脱出しようとした。
そして旅の途中で、30年12月に病死した。

彼は死の直前に、「中南米は、治める事が出来ない。革命に尽くした人は、ただ海を耕したにすぎない。」と述懐したという。

(2013.10.23.作成)


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