1896年にムバーラクがクーデターで首長になり、
親イギリス政策を採る

(『フセインの挑戦』小山茂樹著から抜粋)

アブドッラー2世は1892年に、首長の座を弟のムハンマドに譲った。

すると4年後の96年に、次弟のムバーラクが、イギリスの支援を得てクーデターを起こした。

ムバーラクは、親トルコ政策を続けるムハンマドを襲って殺した。

これ以後クウェートは、イギリスへの接近が一挙に深まった。

1899年にムバーラクは、「イギリスの許可なく領土の割譲や租借をしない」との条約を、イギリスと結んだ。

これによりクウェートは、イギリス貿易の拠点となり、繁栄の基礎が固められた。

ムバーラクが「クウェート中興の祖」といわれる所以である。

第7代首長ムバーラクには、ジャービルとサーレムの2人の息子がいた。

サバーハ家は、ジャービルとサーレムを始祖とする「ジャービル分家」と「サーレム分家」に分かれた。

そしてムバーラク以降は、両家が交互に首長に就くことになった。

○村本のコメント

普通だと、外国と不平等条約を結ぶと国力が落ちてしまい、条約を結んだ者は「売国奴」と評されるものです。

しかし、ムバーラクは違うようです。

クウェートは砂漠の国で産業がほとんどないため、イギリスは富を絞り取るよりも貿易の中継地点として優遇したのかもしれません。

つまり、ムバーラクが有能だったのではなく、クウェートの地理条件が植民地にするのに向いていなかったのではないでしょうか。

(2014年8月19日に作成)


クウェート史 目次に戻る