(『イスラム・パワー』松村清二郎著から抜粋)
18世紀になると、レバノンの事態は変化し始めた。
それは、「ヨーロッパ諸国の勢力拡大」と「オスマン・トルコ帝国の衰退」のためだった。
そうした情勢の中、キリスト教マロン派は、絹の生産と輸出で繁栄した。
19世紀になると、列強諸国のレバノンへの関心は強まり、フランスがマロン派を支援し、イギリスはドルーズ派を支援し始めた。
これが、今日のレバノンの悲劇の一因となった。
1831年から10年間は、レバノンはエジプトに支配された。
エジプトを支配していたムハンマド・アリが、息子のイブラヒムにシリア(レバノンを含む)を占領させたのだ。
この占領が10年で終わったのは、ヨーロッパ列強国の介入があったからだという。
イブラヒムはレバノンを統治中、ヨーロッパ列強の好意を得るために、キリスト教徒の租税を減免した。
これにより、イスラム教徒だけが課税され、不満が高まった。
エジプト占領が終わると、オスマン帝国の支配に戻った。
オスマン帝国は、「レバノン支配には、マロン派とドルーズ派の抗争を扇動するのが良い」と考えた。
その結果、両者の血みどろの抗争が1841年から始まった。
抗争は、1860年の虐殺で頂点に達した。
この時の虐殺で、1.1万人のキリスト教徒が死に、150ヵ村が焼かれたという。
虐殺事件は、シリアのダマスカスでも起こり、フランス軍は「レバノンのキリスト教徒を保護する」と言って、ベイルートに進軍した。
この結果、オスマン帝国とフランス・イギリス・オーストリア・ロシア・ドイツの5大列強の間で、1861年6月9日に協定が成立した。
この協定によって、レバノンの山岳部は切り離され、ヨーロッパの指揮下に入った。
山岳部は、キリスト教徒の現地総督の下での自治体制となった。
この体制は、オスマン帝国の崩壊まで続いた。
(2013年4月11日に作成)