(『イスラム・パワー』松村清二郎著から抜粋)
イスラエルの建国後に、パレスチナ難民のベイルートへの大量流入が発生した。
アラブ諸国はパレスチナ難民を厄介者扱いしたが、レバノンのスンニ派コニュニティは歓迎したからだ。
スンニ派の指導者は、パレスチナ難民を「レバノン国内でのスンニ派の立場強化」に利用しようとしたのだ。
パレスチナ人にとっては、レバノンは最後の拠点となった。
ベイルートは、中東における言論・出版の中心地でもあった。
(これは、多宗教の国で政府による言論統制が少なく、治安も良かったからである)
第三次中東戦争(1967年)以降、パレスチナ人の武装組織が出現した。
この武装組織が、レバノン国内に居るという事が、レバノンの社会的矛盾と結びつく形で、1975年からの内戦につながった。
当初はパレスチナ人とキリスト教マロン派の戦いだったが、パレスチナ人とシリア軍、パレスチナ人同士と、相手はくるくると変わった。
見方によっては、アラブとイスラエルの紛争は、70年代半ば以降にレバノンに移動したといえる。
その証左が、82年のイスラエルによるレバノン侵攻である。
(2013年4月11日に作成)
(『世界の紛争 イスラム・アメリカ対立の構図』から抜粋)
レバノンは独立後、レッセ・フェール(自由放任主義)の経済政策を推進して繁栄を続けていった。
ところが1970年にヨルダンで内戦が始まると、ヨルダンを追われたパレスチナ人が流入してきた。
ヨルダン内戦は、同地で勢力を増し治外法権的な力を築いたパレスチナ武装勢力を見かねて、政府が弾圧に乗り出したことから発生した。
ヨルダン軍とパレスチナ武装勢力の戦いによって、内戦状態に陥った。
ヨルダン軍が勝つと、パレスチナ武装勢力はレバノンに逃げ込んだ。
そしてPLOを中心としたパレスチナ・ゲリラの根拠地と化し、イスラエルの攻撃を受けるようになった。
(2016年11月1日に作成)