(『イスラム・パワー』松村清二郎著から抜粋)
アラブ諸国とイスラエルの紛争について、1973年7月にサウジのファイサル国王は、「石油を、対イスラエルの武器として使用する用意がある」と発言した。
しかし、米国はこの発言に注目しなかった。
同年10月に第四次中東戦争が始まると、サウジは「石油輸出の停止」を発動した。
これが、世界を震撼させた「石油危機」につながった。
米国のニクソン政権は、西側諸国が足並みを揃えることで石油危機に対処しようとしたが、手詰まりとなった。
そして、サウジと交渉をする事となった。
米国では、条約形式をとると上院の関与を受けて、すべてがオープンになる。
中東国は、どちらかといえば秘密を好む。
そこで、「二国間で合同委員会を設置して、秘密裏に事を進める」アイディアを、ニクソンのブレーンだったキッシンジャーが構想した。
そして、『米サ経済協力合同委員会』が1974年6月8日に、キッシンジャーとファハド皇太子の調印により設置された。
この委員会によって、76年に『米サ秘密協約』が結ばれた。
この協約の内容は、次の3つである。
① サウジは、余剰ドルを米国債の購入に当てて、リサイクルする
米国債の利息分は、米国からの戦闘機購入などに当てられる
② OPECの原油価格が値上げされても、米国向けは年率5%の
値上げにとどめる
③ ②の見返りとして、米国はサウジの防衛にコミットする
(『サウジアラビアを知るための65章』から抜粋)
1973年に第四次中東戦争が始まると、サウジアラビアはエジプトやシリアと共に、イスラエルを支援する国に対する石油禁輸に乗り出した。
その結果、日本などはオイル・ショックに見舞われた。
サウジは、イスラエルを支援するアメリカの政策変更を、粘り強く交渉していた。
だがアメリカは変更しなかった。
石油禁輸は、硬直的なアメリカとその友好国への警告だったのである。
オイル・ショックにより、日本は中東政策を見直すことになった。
従来はアメリカ追従型の政策だったが、これ以後は独自の中東外交の必要性を認識することとなった。
(2013年3月28日に作成、16年11月10日に加筆)