(『サウジアラビアを知るための65章』から抜粋)
1953年11月19日に、サウジアラビアの初代国王イブン・サウードが死去した。
後を継いだ第2代国王のサウードは、馬鹿げた事に散財した。
100人以上の女性と婚姻関係をもち、無知な息子たちを閣僚級のポストに就かせた。
サウード国王は、閣議すらまともに運営できなかった。
どもらずに話す事ができなかったからだ。
彼は、歴代の王の中でも悪評が高い。
彼は初代国王イブン・サウードの36人の息子の中で、最年長だった。
サウードは、政治・軍事の手腕が若い頃から認められており、イブン・サウードの留守中にはリヤドを治め、各地で軍隊の指揮にあたった。
イブン・サウードが刺客に襲われた際に、自らが身を呈して、肋骨を刺されながら国王をかばったというエピソードもある。
若い頃は質実剛健で信仰心が深かった。
サウードは石油利権について諸外国(主にアメリカ)と交渉をするようになってから、質実剛健さを失っていった。
国王になった後は、経済発展で功績をあげた。
後に海運王と呼ばれるギリシャのオナシスに、「サウード・タンカー社」を設立させて、石油の海上輸送にロイヤリティを課した。
アメリカのアイゼンハワー政権は、アラブの民族主義を抑制するために、中東介入の窓口としてサウジに白羽の矢を立てた。
当時、中東ではエジプトのナセル大統領が主導するナセル主義(米欧の支配から脱する事を目指すアラブ民族主義)が流行っていた。
ナセルを支持するサウジ国民と、反ナセルのアメリカとの間で、サウードは揺れ動いた。
1958年に、サウードがナセル政権転覆の陰謀を企てた事がリークされ、サウードの評価は失墜した。
ファイサル皇太子は外交能力に長けていたため、王族内でファイサル支持が高まり、58年にファイサルを首班とする内閣が発足した。
サウードは統治者の地位を奪われ、64年3月にはすべての権限をファイサルに委譲するように求められた。
同年11月に、サウードは国王を退位して、エジプトに亡命した。
そして69年にギリシャでこの世を去った。
サウード時代は、異なる能力を持つサウードとファイサルが競合していたからこその功績も多い。
60年前後には、「農業水資源省」「教育省」「石油鉱物資源省」「巡礼・イスラム省」「情報省」などが設置されている。
(2016年11月10日に作成)