(『サウジアラビアを知るための65章』から抜粋)
サウジアラビアの第3代国王のファイサルは、謹厳で真面目な名君だった。
彼は、初代国王イブン・サウードの3番目の息子である。
(第2代国王のサウードとは母が違う)
ファイサルは10代の頃から外国訪問を次々とこなし、24歳で外相になるなど、王族の中でも海外情勢に長けた人物だった。
信仰心の深さでも知られ、宗教界からの支持もとりつけた。
彼の行った改革の中で最も重要なのは、『女子教育の導入』だ。
それまでは、富裕層が家庭教師を雇う以外には、女子教育はなかった。
1960年に女子教育は公教育化された。
これには、ファイサルの妻イファットの働きもあった。
62年には、『奴隷制の廃止』が行われた。
奴隷所有者には、莫大な補償金が支払われた。
65年には、『初のテレビ局の開設』がされた。
経済発展も進み、ファイサル治世下の1965~75年の10年間に、歳入は29億リヤルから1001億リヤルへと30倍になった。
(※これは石油収入の増大が大きい)
1970年からの5ヵ年計画では、石油依存からの脱却が目標とされ、経済の多角化や人材育成が掲げられた。
他方で、王族の浪費に歯止めをかけるため、王族の支出への統制を強めた。
ファイサルが評価されるのは、石油収入を浪費せずに、社会・経済改革に投じたためだろう。
テレビ局開局の2か月後の65年9月に、テレビ導入に反対した人々がデモを行った。
この中に、初代国王イブン・サウードの孫であるハーリドもいた。
警官の発砲で、ハーリドは射殺された。
この事件は、思わぬ事態に発展する。
それから10年後の75年3月に、ハーリドの弟ファイサル・ムサーイドは、ファイサルを暗殺したのだ。
ファイサルの政策により、テレビは普及し、女子教育は急速に拡大した。
5ヵ年計画は続いていき、2005年からは第8次目に突入した。
(2016年11月10日に作成)