(『サウジアラビアを知るための65章』から抜粋)
サウジアラビアの第4代国王のハーリドは、物静かな人物で、柔軟な知性と調和の精神を持っていた。
政策立案チームに幅広い選択肢を与え、地方の州知事の自主性を広げようとした。
1973年10月の第四次中東戦争により、サウジは転機を迎えた。
73~74年のオイル・ショックは、サウジでは「石油ブーム」と呼ばれている。
さらに79年のイランでのイスラム革命により、第二次オイル・ショックが起きた。
2つのオイル・ショックにより石油価格は高騰し、サウジなどの石油国に莫大な収入をもたらした。
72年に27億ドルだった石油収入は、81年には1020億ドルにまで拡大した。
サウジ政府はこの収入を用いて、国内開発に着手した。
経済活動の促進、工業コンビナートの開発、農業開発、所得分配、を行った。
オイル・マネーの分配は、社会の安定性を高めた。
さらに、富裕層とエリート層を生み出した。
1979年にイランでイスラム革命が成功すると、サウジ国内でも11月に「聖モスク占拠事件」が起きた。
占拠者たちは、宗教指導者の腐敗を糾弾し、王制の打倒を主張した。
政府は、治安部隊を突入させて鎮圧した。
この反乱は、今日に至るまで、サウジでの最大の反乱事件となっている。
79年12月と80年2月には、シーア派の人々の反政府デモも起きた。
このデモは、徹底的に鎮圧された。
(サウジではワッハーブ派が大多数で、シーア派は少数である。
イランはシーア派が多数。)
これらの事件で、サウード家による支配体制の正当性を疑問視する人々の存在が明らかになった。
そこでサウジ政府(サウード家)は、イスラム教ワッハーブ派の遵守によって統治する政策を再強化した。
戒律を遵守しているかを、政府や国民は常にチェックされる事となった。
(2016年11月10日に作成)