第5代国王ファハド(1982~2005年)

(『サウジアラビアを知るための65章』から抜粋)

第5代国王のファハドの目指した国造りは、人材育成に基づいたものだった。

ファハドは1950年代から、学校教育システムの拡大に尽力していた。

1992年には、「国家基本法」「地方制度法」が初めて成文法として制定された。

「諮問評議会法」も制定され、国会にあたる諮問評議会が設立された。

外交面では、アラブとイスラエルの紛争解決を目指し、81年に和平案を提唱している。

これは、2002年のアブドッラー皇太子の中東和平案「アブドッラー提案」にも繋がるものだった。

レバノン内戦についても、89年にはレバノン国会議員を招き、内戦終結への協議を行った。

1990年8月の湾岸危機(湾岸戦争)では、いち早く多国籍軍(アメリカ軍)に協力した。

アメリカ軍をサウジに駐留させたため、イスラム過激派を増加させることになった。

サウジの周辺諸国への外交は、打算的である。

中東でどこかの国が突出して強くなるのを避けるため、勢力を強めている国に対しては反体制派勢力に財政支援を行う。

こうする事で、各勢力がサウジに依存するように仕向けてきた。

サウジは外国からの投資を奨励するために、総合資投院(SAGIA)を設立した。

アメリカからは、一貫して軍事援助を受けた。

この関係の基礎は、1951年6月に結ばれた「米サの相互防衛援助協定」である。

70年代以降のサウジ王族によるアメリカ株式の保有の動きは、両国の相互依存度を高めた。

宗教面では、71年に設立された司法省を強化し、それまで司法を掌握していた宗教指導者の権限を司法省に譲渡させた。

ファハドは、ハーリド国王の時代にも外交・政務を統括しており、リーダーシップを持った国王であったと言える。

ファハドは、1995年に脳卒中で倒れた。

それ以来、アブドッラー皇太子が政権を運営した。

ファハドは2005年8月に死去した。

(2016年11月11日に作成)


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