サウード家とワッハーブ家の同盟

(『イスラム・パワー』松村清二郎著から抜粋)

18世紀の半ば頃に、ダライーヤの支配者だったサウード家の当主シェイク・サウードは、説教師ワッハーブのパトロンとなった。

ワッハーブは、無法状態にあったアラビア半島にあって、「イスラム教の原点に返り、厳しい戒律を求めよう」と訴える、『原理主義者(イスラム復興主義者)』であった。

サウード家は、近隣の部族や都市を征服するジハード(聖戦)の武器に、ワッハーブの思想はなれると見た。

そこで1744年にシェイク・サウードは、自分の息子とワッハーブの娘を結婚させた。

ワッハーブ=サウード同盟は勢力を拡大し、巡礼の妨害、モスクの破壊、娯楽品の焼却などを行った。

怒ったオスマン帝国は、1811年にエジプト代官(総督)のムハンマド・アリに駆逐するように命じた。

(この頃は、オスマン帝国が中東を支配していた)

1818年9月に、ワッハーブ=サウード同盟の本拠地だったダライーヤは陥落し、サウード家の当主だったアブダッラーは処刑された。

(『大衝突』池上彰著から抜粋)

ワッハーブ家とサウード家は、政治的支配者はサウード家、宗教的支配者はワッハーブ家に分けていた。

1792年にワッハーブが死去すると、サウード家が宗教面でも指導者の地位を得た。

(2013年3月27日に作成、16年11月10日に加筆)


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