(『イスラム・パワー』松村清二郎著から抜粋)
軍を率いてアラビア半島の旧領を確保したイブン・サウードは、イギリス(英国)と手を組もうと考えた。
当時イギリスは、ペルシャ湾を支配下に置いていた。
イブン・サウードは、英国のペルシャ湾駐在官に書簡を送った。
しかし英国は、オスマン・トルコ帝国を刺激することを恐れて、返書すら送らなかった。
こうした中、1910年2月に、イブン・サウードと英国のクウェート駐在官ウィリアム・シェークスピアが出会った。
シェークスピアはイブン・サウードを高く評価して、イランにいる上官パーシー・コックスに「イブン・サウードは、度量の大きい人物で信頼できる」と推挙した。
しかし英国外務省は、石油利権のために1913年7月に『英トルコ協商』を締結し、シェークスピアを叱責した。
この情勢を見たイブン・サウードは、14年5月に「オスマン帝国の宗主権」を認めて、自らはオスマン帝国のネジド地区司令官となった。
だが、すぐに第一次世界大戦が始まり、英国とオスマン・トルコは敵対した。
イブン・サウードは大戦が始まると、ラシード家の打倒を目指して進攻をした。
1915年12月に、イブン・サウードとパーシー・コックスは初めて会談をした。
そして、『英国とサウジの友好条約』を結んだ。
これは、実質的には保護条約であった。
(2013年3月27日に作成)