(『イスラム・パワー』松村清二郎著から抜粋)
第一次大戦が始まると、英国はカイロのエジプト高等弁務官府に『アラブ局』を設置し、「中東政策の立案事務局」とした。
そして大戦が終結すると、英国は1916年に結んでいた『サイクス・ピコ協定』に基づいて、フランスと共にオスマン・トルコ帝国を解体して、オスマン帝国領を分割統治した。
英国は、この中東分割の密約で英国の統治下となったイラクとトランス・ヨルダンについて、メッカ太守シェリフ・フセインの二人の息子を、それぞれ国王にした。
英国の外交官パーシー・コックスは、ハリー・フィルビーを1917年11月に、イブン・サウードの許に派遣した。
そして、イブン・サウードへの兵器の援助を行った。
英国はシェリフ・フセインに肩入れをしており、フセインの率いるハーシム家は中東随一の軍事力となっていた。
しかしトラバでの戦闘で、イブン・サウードらの軍団はフセイン軍に勝利した。
これ以後、英国はフセインから離れ始めた。
1924年3月5日に、フセインは「カリフ就任の声明」を発表した。
(※カリフとは、イスラム帝国の皇帝につけられる尊称のことである)
イスラム帝国の復活を恐れる英国は、これにショックを受けた。
イブン・サウードも、怒った。
24年8月に、イブン・サウードはヒジャース侵攻を命じ、その軍団は大虐殺を行った。
フセインは英国に援助を求めたが、英国は傍観をした。
フセインは10月3日に退位に同意して、10月16日に亡命をした。
こうしてイブン・サウードは、アラビア半島をほぼ統一した。
これを受けて英国は、1927年5月にイブン・サウードを「ネジドとヒジャースの支配者」として承認する条約に調印した。
これが、『ジェッダ条約』である。
1932年9月に、イブン・サウードはネジドとヒジャースを統合し、国名を『サウジアラビア王国』とすると宣言した。
サウジアラビアには、アラビア半島の一部が入っていない。
これは英国の判断によるもので、イブン・サウードは逆らえなかった。
なお、サウジアラビアとは、「サウード家のアラビア」という意味である。
(2013年3月27日に作成)