アヘン戦争が起きるまで⑤
アヘンの弛禁論と厳禁論、厳禁論が勝つ

(『実録アヘン戦争』陳舜臣著から抜粋)

外国商人との貿易を唯一していた「広州」には、「学海堂」という名門校があり、創立の1824年から廃校になった1903年まで広州学界の中心だった。

学海堂の学長の呉蘭修は、中央官庁の高官である許乃済と親しく、「アヘン禁止の政策を弛めることで、今の社会問題を解決できる」と説いた。

「アヘン禁止を弛める(弛禁論)」は、学海堂の教授たちも同意見であった。

これに対し、広州には「越華書院」という名門校もあり、こちらはアヘンの厳禁を唱えていた。

私が推測するに、弛禁論を唱えた学海堂の教授たちの後ろに、外国商人と交易をする公行(中国人商人のギルド)がいたと思う。

学海堂・学長の呉蘭修が唱えたアヘン弛禁論は、アヘンの合法化につながる政策で、公行が熱望している事だった。

広州は富裕の地で、赴任してくる役人たちは現地商人に籠絡されるケースが多かった。

公行の代表者である伍紹栄は、ロスチャイルドなどの世界的な富豪(商人)と並ぶ存在だったろう。

首都・北京の中央官庁にいる許乃済は、呉蘭修の意見を参考にして、アヘン弛禁論を説く皇帝への上奏文を書いた。

これが皇帝に届けられたのは道光16年(1836年)4月27日である。

この上奏文は、「許太常奏議」と呼ばれているが、その要旨はこうであった。

乾隆帝の以前は、アヘンを薬材として公式に輸入していた。

その後に法令でアヘンを禁じたが、吸う者が増えてきて天下に満ちている。

乾隆帝までは、アヘンの輸入に税金をかけていたし、アヘンは茶葉などと交換で入手していた。

近年はアヘンは毎年2万箱も密輸され、その代金は銀貨で支払われており、銀で1千万両以上になる。

アヘン購入で銀が国外に流出するので、銀価が上がり、かつては銅銭が1000文で銀1両だったのに、最近は1300~1400文でなければ銀1両と交換できない。

近年は、外国船は広州以外にも現れ、福建や天津などにも来てアヘンを密輸している。

だから、広州での貿易を断絶しても密輸アヘンは無くならない。

また、アヘン禁止が厳しくなるほど、不正をする役人の懐は賄賂で豊かになる。

つきつめると、アヘンを吸う者は遊惰で志が無く、取るに足りない輩である。

わが国の人口は急増中だから、アヘン中毒者が死んでも人口は減らない。

いっそのこと、アヘンに薬材なみの税金を課して、通関後は物々交換で交易させてはどうか。

役人や兵士がアヘンに染まって廃人になると困るから、彼らには法で禁じればいい。

愚民たちは廃人になっても政治体制を傷つけない。

アヘンを合法にして物々交換で買えば、銀を1千万両も節約できる。

(広州のある)広東省でアヘン事情の調査を命じてほしい。

また、(アヘンの元である)ケシの栽培も禁じられているが、それだと利益が全て海外にいってしまう。

わが国の土性は穏やかだから、アヘンを作っても力の薄いものになり、人は傷つけない。

明の時代にタバコが呂宋から渡来したが、国内で栽培するようになってから輸入は止まり、しかも国内タバコは人体に優しい。

広東省の場合、9月に二毛作の晩稲を刈った後にケシを植えると、2~3ヵ月で花が開いて、それを収穫してから早稲を植えられる。

以上が、許乃済の提出したアヘン弛禁論である。

皇帝に上奏文が出せるのは、ごく一部の者にしか資格がない。

それに皇帝が気に入らなかった場合、免職や死罪もあるから、よほど勇気がないと出来なかった。

だから許乃済の上奏文は、ただの思いつきではなく、十分に準備して行われたものだ。
彼は、広東省の役人やアヘンを合法にしたら大儲けできる公行と、事前に相談していたはずだ。

許乃済の上奏文は聞き入れられ、「広東省で調査して報告(覆奏)せよ」との勅命が出た。

そして同じ道光16年の10月に、報告書「広東覆奏」が皇帝に届いた。

その内容は次の9ヵ条だった。

①物々交換でアヘンを手に入れ、銀を用いずに交易すること

②清の巡視船は外洋に取り締まりに出ない(外国船を取り締まらない)

③外国商人は銀貨を持ってくるが、その3割しか持ち帰れない

④アヘンの輸入を認めて、他の商品と同じ扱いにする
 専門の公局は設けない

⑤税率は旧制どおりにし、増額しない

⑥アヘンの輸入を認めたら相場は当然下がるから、アヘンの価格はあらかじめ決めない

⑦国内の各省に船でアヘンを運ぶ時は、広東の海の関所の「印照」を交付し、これのない者は密輸とする(広東省が外国船からアヘンを買うのを支配する)

⑧国内のケシ栽培は、禁をやや弛める
 良田はケシ畑にしない

⑨役人や兵士はアヘンを吸うのを禁じる

上記した「許太常奏議」と「広東覆奏」はペアを成すものだが、これに対して多くの反論が当然ながら出た。

それがアヘン厳禁論となった。

許球は上奏文でこう述べた。

一般人にはアヘンを許し、官兵は禁じるというが、官兵は一般人から徴募するではないか。

人に有害なアヘンの流行を許して、税金をとるなんて、まともな政治ではない。

むしろイギリスの国王にアヘン厳禁のことを通告してはどうか。

袁玉麟も、反論の上奏文を出しており、その要旨を紹介する。

アヘンを合法にして旧制のように課税しても、2万箱で12~13万両にすぎない。アヘン弛禁で課税する提案は、小利を見て大利を傷つける妄説である。

外国商人がアヘンを売るのは、銀が欲しいからであって、物々交換では承知しない。

銀の流出の問題は、真剣に監視するかどうかにかかっている。
真剣にやればアヘン禁止が行われ、銀流出の抑止も行われる。

ケシの栽培を許すと、アヘンの利潤は農業より数倍高いので、農民は利に走るだろう。
そうなれば人口は増えているのに、穀物の生産は減っていく。
災害が起きたらどうにもならなくなる。

愚民は生命を縮めても構わないという論は、言語道断である。
皇帝の恩恵は全ての人が浴すべきだ。

アヘンを禁じても効果がないから禁じなくてよいとの論は、盗みを禁じても無くならないから、その禁を弛めよとの論に等しく、未だ聞いたことがない暴論だ。

アヘン禁止だと賄賂が多くなり、禁止しなければ賄賂は減ると言うが、それは法を守らないからで、綱紀の問題である。
法を行う人が悪ければ、アヘン禁止を弛めても賄賂は横行する。

この袁玉麟の上奏文により、許乃済のアヘン弛禁論は敗れ去った。

さらに、道光18年(1838年)に提出された黄爵磁の上奏文が、決定打となった。

黄爵磁は、アヘンを吸う者は死刑にすべきとの、思い切った政策を述べた。

黄爵磁は、銀の海外流出はアヘン密輸が原因であると述べ、なぜアヘン禁止策の効果がないかをこう説いた。

1年の期限で、アヘン中毒を止める猶予期間を与える。
中毒者は、その間にアヘンを断絶すればいい。
1年経っても吸う者は、重刑にする。

これまでだと、アヘンを吸う罪は枷と杖打ちのみで、アヘンを止めるほうが苦しいから、アヘンを止めようとしない。

吸う罪を死刑にすれば、アヘンを止めるより苦しいので、止めるだろう。

重刑は冤罪を生みがちだが、アヘン中毒者は一目で分かるので冤罪もない。

ジャワの人々は、外国人からアヘンを吸うのを勧められて、元気が衰えて征服されてしまった。

旻寧(道光帝)は、黄爵磁の上奏文に心を動かされて、写しを作らせて各地の高官に送り、意見を求めた。

これに対し、最も優れた覆奏(返事の上奏文)をする者をアヘン撲滅の任に当たらせようとしたのだ。

写しを送られた20数名の総督・将軍の中で、黄爵磁の上奏文に全面的に賛成したのは次の4人だった。

林則徐・湖広総督、陶澍・両広総督、蘇廷玉・四川総督、桂良・河南巡撫。

他の高官たちは、死刑はやりすぎだと返事した。

当時の地方長官を見ると、過半数は満州人だが、上の4人のうち満洲人は桂良だけである。

当時、賄賂を取る官吏や、利権を持つ世襲貴族たちは、たいていはアヘン弛禁論に賛成した。

なぜかというと、アヘン厳禁を行うと世の中が変わるからである。

少数の満洲人で中国を支配していた清朝は、満洲人のほとんどが現状維持を求めており、事なかれ主義だった。
彼らは、アヘンを吸う者はそっとしておけと考えていた。

ただし満洲人でも皇帝の旻寧だけは別だった。
国庫が減ってきて自分が倹約生活になっているのに不満で、アヘンを憎んでいた。

旻寧は、アヘンを徹底的に禁じると決めた。
そして、まず皇族の中でアヘンを吸う者の爵位を取り上げた。

さらに弛禁論を上奏した許乃済はポストを降格して、休職処分にした。

旻寧は、地方長官の出した覆奏の中で、林則徐のものが最も気に入った。
そこで北京に呼び寄せることにした。

なお旻寧は、林則徐と黄爵磁が「宣南詩社」の同人で親しいのは知らなかったろう。

(『中国を知るための60章』明石書店から抜粋)

旻寧(道光帝)は、自らが一時はアヘン中毒だった。

彼はアヘン中毒を克服しつつ、林則徐(の覆奏を気に入り、彼を)欽差大臣にしてアヘンの取り締まりを命じた。

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(2022年2月7~8日に作成)


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