アヘン戦争①
林則徐がアヘン厳禁を命じられ広州に入る
アヘンを売り続けたいイギリスと戦争が始まる

(『実録アヘン戦争』陳舜臣著から抜粋)

清朝の皇帝である旻寧(道光帝)は、アヘンを厳禁にすると決めて、湖広総督の林則徐を首都・北京に呼び寄せた。

林則徐は道光18年(1838年)11月10日に北京に着き、翌日に旻寧に会った。

旻寧は林則徐を気に入り、8日連続で呼んで話を聞いた後に、林則徐を「欽差大臣」に任命して、アヘン禁絶を命じて全権を委任した。

則徐は、広東省の水師(海軍の指揮権)も与えられた。

林則徐が北京にいる間に、宣南詩社(詩人の同好会)で同人の龔自珍(高名な詩人)は則徐の宿舎を訪ねて、「よければ広東まで供をして役に立ちたい」と伝えたようだ。

この時の自珍は、中央官庁の課長クラスの役職だった。

当時の高官たちは私設秘書のグループを持ち、「幕僚」とか「幕客」と呼ばれた。
その役を自珍は申し出たのである。

林則徐は11月23日に北京を発ち、広東省の広州に向けて出発した。

龔自珍への返書は、その旅路に書かれたが、そこには「時勢が微妙なので、人をやって説明させます」とある。

使者がどのような説明をしたかは推察するしかないが、私の推理はこうである。

欽差大臣に就任した林則徐は、前途の困難を知っていた。

軍機大臣の穆彰阿や直隷総督の琦善ら北京政府の高官たちは、アヘン厳禁策に冷淡であった。

中国では昔から、遠征して大功を立てると、皇帝の側近がねたんで讒言をする。
それを則徐は思い浮かべただろう。

それに赴任する広州は、アヘン密輸の本山であり、則徐は孤立する恐れがあった。

広州で交渉相手となるイギリスは、優れた兵器を持っているし、情勢が緊迫すれば本格的な軍事行動に出る可能性もある。

則徐は失敗を予感し、友人の龔自珍を巻き添えにしない配慮をしたと思われる。

林則徐は広州に向けて出発したが、当時は高官が旅行する時は、「前站」と称する小役人が行列よりも先に進み、各地で饗応の準備をさせた。

高官の旅行を事前に通告する「伝牌」という文書を渡して、ご馳走の準備をさせた。

高官の旅行は日本の大名行列と同じで、臨時の人夫を徴発したが、人夫に給料は出ず、その埋め合わせに人夫たちは方々で金品をねだった。

これが慣例だったが、林則徐はこれを禁じて、質素な旅行を続けた。

林則徐は江西省に着くと、飛脚を出して広東省の役人にアヘン密輸をしている60名のリストを渡し、その逮捕を命じた。

「今度の欽差大臣は容赦ないぞ」と、中国人の密輸関係者は震えあがった。

林則徐は道光19年(1839年)1月25日に広州に到着した。

則徐は皇帝から「アヘンを禁絶せよ。ただし諸外国と紛争を起こすな」と命じられていた。

だがアヘン禁絶は、外国商人との摩擦なしに出来るわけがない。

到着して9日後に則徐は、2通の指示書を出した。

1通は外国商人たちと交易をしている公行(中国商人のギルド)に宛てたもので、「3日以内に外国商人から、『2度とアヘンを持ち込まず、持ち込んだら死刑になり、財産は全て没収される』との誓約書を取れ」と命じた。

もう1通は「各国の夷人に諭す」という題で、外国商人たちにこう告げた。

「アヘンをわが国に持ち込み、民を蠱惑することは、数十年に及んでいる。
その間に得た不義の財は数えきれない。

この度、皇帝はアヘンの根絶を決め、吸う者は死罪にした。

お前たちもこれに従い、船に積んだアヘンを全て官に納めよ。
隠し持ってはならない。」

アヘン戦争は、ここで点火されたといえる。

誓約書を出す期限は2月7日だったが、外国商人たちは頭から拒絶して無視した。
その日、林則徐は動かなかった。

公行の代表者である伍紹栄は懸命に、外国商人たちに「欽差大臣は非常の時にしか任命されず、ことは重大だ」と説いた。

そこで外国商人たちは、「今回は賄賂では解決しないらしい」とようやく理解し、相手の面子を立ててやるかと、誓約書には触れずに「アヘンの1037箱を供出する」と返事した。

だがアヘンを積んだ専用船には、2万箱がストックされていると林則徐は見ており、拒絶した。

林則徐は、イギリスのデント商会を率いるデントの逮捕状を出した。

本当は最大のアヘン商人である、イギリスのジャーディン・マセソン商会のウィリアム・ジャーディンを逮捕したかったが、則徐が到着する5日目にジャーディンはイギリスに帰国していた。

イギリス側は、デントの引き渡しを拒否した。

この時、イギリスの「駐清の商務監督」は、チャールズ・エリオット海軍大佐だった。

彼はマカオに居たが、情勢を聞いて広州に来ると、イギリス商館にユニオン・ジャックを掲げた。

そこで林則徐はイギリス商館を包囲し、アヘンを渡すよう要求した。

則徐の命令で、イギリス商館の壁に次の4ヵ条が大書された。


かつてイギリスのロバーツが(1809年に)マカオを占領しようとして死んだ。
1834年には商務監督のネーピアが虎門を越えて侵入したが、これも死んだ。
その時に暗躍したモリソンも、同年に死んでいる。
アヘン商人のマニアクも自殺した。


清の皇帝はアヘンを深く憎み、今後はアヘンを売る者だけでなく、吸う者まで死罪にする。


お前たちは広州に来て通商するが、アヘンを売らなくても利益を得られる。
アヘンで貿易を停止されたら、生計が立たなくなるぞ。


お前たちはここに来て貿易をするのだから、住民と仲良くしなければならない。
だがアヘンで住民が不平を抱いている。
アヘンは売るべきものではないし、持っているのを差し出せば貿易はいよいよ盛んになる。

イギリス商館を包囲されたエリオットは、わずか48時間で屈した。

エリオットはアヘンを全て渡すことを約束する手紙を書き、数量は2万283箱と伝えた。

林則徐は、没収したアヘン1箱につき、茶葉5斤を褒美として与えた。

当時のアヘンの相場は1箱につき700~800ドルで、2万箱なら1500万ドルになる。
なお、インドでの原価は1箱200ドルだった。

2万箱のうち、ジャーディン・マセソン商会が7千箱を占めており、2位のデント商会は1700箱だった。

アメリカ領事のピーター・スノウの報告では、アメリカ商人が代理で販売していたのは1540箱あって、それはエリオットに返却している。

道光19年(1839年)2月26日に、アヘンを一杯に積んで沖に停泊していたアヘン船が来航した。

林則徐は虎門でこれを没収したが、アヘンの総量は1425トンにもなった。

膨大な量のため、収容する臨時の倉庫がつくられたが、それも含めてアヘンを全て収容するのに1ヵ月強かかった。

林則徐は、そのアヘンを北京まで運ぼうとした。
任務完了の証拠として見せるためである。

しかし旻寧(道光帝)は、現地で処分してよいと命じた。

そこで則徐は、アヘンの処分法を研究したが、焼却だとアヘンが地中に染み込んで、土を掘って煮ると2~3割を回収できると分かった。

アヘンの性質を調べると、塩と石灰が苦手だと分かったので、海岸に大きな池を2つ作り、そこに水と塩とアヘンを投じた。

半日ほど塩水につけてから焼石灰を投入すると、煙をあげて沸騰する。
それを水門を開いて海中に放出した。

この工程で5月15日にアヘンを処分し終えた。

一方、チャールズ・エリオットらイギリス人は、怒りを表明するために一斉に広州から退去した。

エリオットはアメリカ商人にも一緒に退去するのを求めたが、断られた。

林則徐のアヘン取り締まりについて、旻寧(道光帝)は「深く感動した。お前の忠君愛国は国内外に皎然たり」と激賞した。

これを見て皇帝の側近たちは、面白く思わなかった。

5月5日に北京の中央政府は、「禁煙章程」を公布した。

これは林則徐のアヘン厳禁策に従うもので、「アヘンを売ったりストックする者は斬首、吸う者は1年半の期限を与えてそれでも止めなければ絞首刑、吸うだけでも杖刑や地方での重労働や解職」という内容だった。

ところが章程の第10条がおかしくて、「アヘン吸いは官憲のみが取り締まり、民間人の告発は許さない」とある。
これはおそらく、保守派の抵抗だろう。

第10条のために、役人が手心を加えると、アヘン禁止が空文化する恐れがあった。

当時の役人は、賄賂を取って手心を加えるのが常識だった。

林則徐は、幕僚に袁徳輝らの英文を翻訳できる者を置き、外国の本を翻訳させた。

そしてイギリス船のケンブリッジ号を買うなど、水軍の近代化にも着手した。

これは、後年の洋務運動の先駆けだった。

エリオットらイギリス人は、林則徐の求めた(アヘンを売らないとの)「誓約書」にサインせずに、マカオに移った。

彼らは香港島に上陸し、酔っ払った者が村民を殴り殺した。

当時の香港はまだ開港しておらず、漁師の部落があった程度である。

清国側は殺人犯の引き渡しをエリオットに要求したが、目撃者も多くいたのにエリオットは犯人不明として拒絶した。

林則徐は、マカオにいるイギリス人に対して、食料の供給を禁じ、買弁などの中国人をマカオのイギリス商館から退去させた。

当時のマカオは、ポルトガルの植民地とされていたが、清政府はマカオの割譲を認めておらず、ポルトガルが総督を置いて占拠している状態だった。

清政府はマカオを自国領と考えていて、役人(澳門同知)を派遣していた。

ポルトガル側は、歴代の澳門同知に賄賂を贈っていたらしく、ポルトガル総督がいるのは黙認されていた。

こんなわけだから、林則徐・欽差大臣の命令はマカオでも生きる。
そこでポルトガル総督は、エリオットに対し「諸君の安全を保証できない」と通告した。

エリオットらイギリス人は、家族と共に船で洋上に出た。
すぐにイギリス軍艦のボレジ号がマカオ沖に現れ、イギリス商船と共に清の兵船に砲撃した。
清側には2名の戦死者が出た。

清とイギリスが揉めている間、アメリカ商人はほくほく顔だった。

香港沖にいるイギリス船から(アヘンではない)貨物を受け取って広州へ運び、それを売って茶葉や絹を積んでイギリス船に渡す。
この短距離の代行業の運賃は、トンあたりで30~40ドルで、サンフランシスコから広州までの運賃よりも高かった。

ロンドンからアフリカ南端を回って広州に至る数ヵ月の運賃が、トンあたり55ドルの時代である。

イギリス船のトマス・カウツ号は、道光19年(1839年)10月11日にマカオに着いたが、荷主はかつて東インド会社の大班を務めたダニエルであった。

トマス・カウツ号は、密かに清政府が求めている誓約書にサインして、広州に入った。

この時は、イギリス人はマカオ在留がまた認められていて、清とイギリスの間は小康状態だった。

清側は、トマス・カウツ号が誓約書にサインした事を、エリオット商務監督の指導力が弱まったためと判断した。

そこで清は、再びイギリス人のマカオ退去を命じた。

エリオットは、第二のトマス・カウツ号を出してはならないと決意した。

イギリス船のロイヤル・サクソン号は、エリオットを出し抜いて誓約書にサインし、広州に入ろうとした。

これを知ったエリオットは、軍艦2隻(ボレジ号とヒヤシンス号)を率いて後を追い、広州の手前の川鼻で追いつき戻るよう命じた。

この時エリオットは、「敵対行為をやめよ」との文書を、川鼻の清国官憲に渡した。

この文書は、清の兵船を退却させるよう求めており、当然ながら清側は無視した。

するとエリオットは、「誠意がない」として清の兵船を砲撃した。

この「川鼻海戦」を、アヘン戦争の開始とする見方が多い。

ボレジ号はかなりの損害を受け、ヒヤシンス号はほぼ被害なしだった。

それに対し清の29の兵船は、ほとんどが大破した。

林則徐は川鼻海戦について、勝利と報じた。
これは虚報に近いが、敵が退去したので勝利としたのだろう。

この海戦は11月3日に起きたが、イギリス船団は翌4日にも砲撃をして、8日にはボートで兵士の百数十人が上陸したが、ほどなく海上に引きあげた。

11日の13日にも砲撃があったが、その後は砲撃は止まった。

エリオットは救援軍が来るのを待つ事にしたのだ。

(『世界の歴史20 中国の近代』市古宙三著から抜粋)

林則徐が外国商人に、「今後はアヘンを持ってきません。持ってきたら死刑になっても異存ありません」との誓約書を求めた時、アメリカやポルトガルの商人はこれを提出した。

しかしイギリスの商人だけは応じず、一斉に広州を去って、マカオに引きあげた。

これに対し林則徐は、「広州で貿易をしない以上、マカオからも出ていってほしい」と要求した。

そうこうしているうちに、1839年7月に(香港の)尖沙嘴の村民が、泥酔したイギリス水夫に殴られて死ぬ事件が起きた。

清側は犯人を渡すよう求めたが、イギリスは応じない。
そこで林則徐は、マカオにいるイギリス人に対し、淡水と糧食の供給を絶った。

イギリス人たちは、香港に移った。

イギリス商人たちが強硬にふるまったのは、貿易を監督するチャールズ・エリオットの指令に従ったものだ。

イギリス政府はかねてから、清の態度が気に食わず、態度を変えさせたいと考えていた。

だからアヘンが没収されたのを機会に、軍隊を派遣して武力で清政府の態度を変えようとした。

アヘン戦争②に続く)

(2022年2月8~9日に作成。2月14日に加筆)


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