(『実録アヘン戦争』陳舜臣著から抜粋)
道光19年(1839年)11月3日に、広州の手前の川鼻で起きた清軍とイギリス軍の「川鼻海戦」は、アヘン戦争の始まりとなった。
イギリス軍艦のボレジ号はかなりの損害を受け、ヒヤシンス号はほぼ被害なしだった。
それに対し清の29の兵船は、ほとんどが大破した。
その後、イギリスの「駐清の商務監督」であるチャールズ・エリオットは、救援軍が来るのを待つことにした。
対する林則徐・欽差大臣は、広州の砲台や兵船の補強を行った。
「川鼻海戦」について、現地の指揮官(林則徐とエリオット)は両者共に、功績を誇示して失敗を隠して報告した。
林則徐は、北京の中央政府への報告書で、「夷船1隻を撃破し、夷人の死体が潮にしたがって漂った」と、勇ましく伝えた。
この海戦でイギリス側の死者は無かったのにである。
この報告書を見た清朝皇帝の旻寧(道光帝)は、勇気を得て、「イギリスとの貿易は永遠に断絶する」と布告した。
これまで懸案だった、イギリス商人から「アヘンを売るのをやめる」との誓約書をとる件は、これで消えた。
貿易全てを断絶することにしたからである。
一方、チャールズ・エリオットも本国への報告書で、いかに苦労しているかを誇張して報告した。
「清国の要人は凶暴な者ばかりで、イギリス国民の財産は奪われ、生命も危機に瀕している」といった調子だ。
現実の清国要人(林則徐)の対応は、凶暴ではなかった。
例えばイギリス人を捕まえても、アヘン貿易と無関係ならすぐに釈放した。
北京でもロンドンでも、現地の実状が分からず、強硬論が唱えられた。
ロンドンでは、広州から追放されたジャーディン・マセソンらのアヘン商人たちが、パーマストン外相に「清国」を懲らしめろと運動した。
それを清に長期在留するギュッラフ伝道師が、「イギリスのフリゲート艦1隻で、清の海軍1千隻を撃破しうる」と報告して、後押しした。
イギリス政府が、清への派兵を決定したのは、1840年2月だった。
同年4月の国会で行われた、戦費支出の採決は、賛成271票、反対262票で可決された。
なお、当時の首相はウィリアム・メルボルンである。
イギリス政府の決定を受けて、インド総督のオークランドは、各地に動員令を下した。
遠征艦隊は、インドからだけでなく、イギリス本国からの増援も加わることになった。
なお遠征艦隊が広東省に到着する前の3月末に、チャーチル艦長のドルゥイド号がいち早く広東に来航した。
イギリスの遠征艦隊の総司令官には、チャールズ・エリオット商務監督の従兄にあたるジョージ・エリオット少将が任命された。
ジョージは特命全権大使も兼任で、チャールズが全権副使となった。
イギリスの遠征艦隊は、広州を封鎖しただけで攻略せず、舟山列島に向かった。
彼らが広州を避けたのは、どこよりも防備を固めていたからである。
主力艦隊の司令官であるブレーマー准将は、舟山列島の定海知県(役人)に、1840年7月4日(道光20年6月5日、※道光は旧暦である)に降伏勧告文を突きつけた。
降伏を拒否したため攻撃され、司令官の張朝発は重傷を受けて死亡した。
イギリス兵は砲台を占領したが、そこにあった清の大砲に刻まれた製作年の文字は「Richard Philip 1601年」だった。
240歳の大砲だったのである。
(※清は長く鎖国していて、ライバル国も近くにおらず、これでもずっと問題なかったのである)
イギリス軍が舟山列島を攻めた時、清の守備兵は2千人だった。
元は1万人を超える大軍がいたが、清は倹約のために兵を減らしていた。
しかも兵士の給料は安く、守備兵たちは普段は大工や左官などのアルバイトをしていた。
だから簡単に負けたのである。
林則徐が案じたのは、首都・北京にいる皇帝の動揺だった。
イギリス遠征艦隊が攻めた定海は、江南地方の入口である(上海の近くである)。
遠征軍がさらに北上して、北京に近づいていけば、皇帝は政策を変えるかもしれなかった。
そこで林則徐は、巡撫の怡良と連名で皇帝に上奏文を送った。
「イギリス人は天津(北京の近く)まで行くかもしれませんが、皇帝に乱暴なことはしないでしょう。彼らを遇するには、懐柔の策をとるのがよろしいと思います。」
あらかじめ予告して、皇帝の動揺を少なくしようとしたのだ。
林則徐の予想通りに、遠征軍は天津沖まで来たが、皇帝らは恐慌状態となった。
いざこざは広東省(広州)だけだと思っていたのに、すぐ側まで来たからである。
天津の守備兵は800人で、そのうち戦闘要員は600人にすぎなかった。
直隷総督の琦善が、イギリス軍の両エリオットとの交渉にあたった。
交渉において清は、これまでの様に「清の大官は夷人と対等の席にはつかない」とは言えなくなっていた。
イギリス側はまず、パーマストン外相の書信を手渡した。
その内容は、いくつかの要求だった。
没収したアヘンの賠償金を支払うこと、謝罪して貿易を保証すること、沿海の1つまたは数個の島をイギリス人の活動場所として指定すること、公行商人のイギリス商人に対する負債を清算すること、などである。
琦善は「広東で起こった事だから、広東で話をつけよう」と説き、交渉の場を広東省に移すことに成功した。
皇帝の近くにいる宮廷の権臣たちは、道光帝を説得して林則徐を罷免させた。
皇帝からの罷免を伝える文書には、こう書いてあった。
「今年に入って夷船が沿海を動き、各省は兵事に奔走させられた。これは林則徐と鄧廷楨のせいである。林は処理が悪く事端を生じさせた。だから懲罰を加える。」
林則徐の罷免は、イギリス側が要求する前に、琦善から切り出したものだ。
琦善は、イギリスとの交渉のために広東に着くや、林則徐のやった事をひっくり返した。
まず、林則徐と関天培・水師提督がつくった水勇(海軍の義勇兵)を解散させた。
水勇たちは後にアヘン密輸の運び屋になったり、イギリス軍の軍夫になった。
そして1万人の守備兵を8千に減らし、大部分を広州城の近くまで退却させた。
このようにしてイギリス人の機嫌をとったのだ。
だが、イギリス人は遠慮せずに、次の要求をした。
6港もしくはそれ以上の商港を、イギリス人のために開放すること。
イギリスは各開港場に領事を駐在させ、マカオ方式の外国人居留地を設ける。
居留地には、家族も居住できる。
開港場でのイギリス人の犯罪は、イギリスの官吏が審判する。
開港場には教会を設置できる。
公行の制度は廃止する。廃止できないなら行商を増減しない。
イギリスが特別の司法権を有する島、または港を割譲する。
琦善は、イギリスとの交渉を、英語のできる鮑鵬という買弁あがりに任せた。
イギリス商人の使用人だった鮑鵬が交渉相手に来たのだから、イギリス側が軽く見たのは当然だろう。
領地の割譲については、琦善は「皇帝に知られてはまずいので、明文にしないでほしい」と持ちかけた。
エリオットは条約の形で明示するのを求めており、拒否した。
現金なもので、イギリス艦隊が天津(北京の近く)から去ると、北京の宮廷は再び態度を硬化させた。
イギリスの出した講和条件に、旻寧(道光帝)は怒り、「交渉を打ち切れ」と命じた。
この時期に、イギリスの両エリオットは政策をめぐって対立し、ジョージ・エリオット特命全権大使は急病を理由にして、新暦1940年11月29日に帰国してしまった。
(アヘン戦争③につづく)
(2022年2月9日に作成)