タイトル黄巾の乱

(以下は『人間三国志4』林田慎之助著から抜粋)

後漢の霊帝(劉宏)の時代は、党錮の大獄(党錮の禁)で知識人たちが政治から遠ざけられ、宦官が思いのままに皇帝を動かし、政治腐敗が極みに達した。

霊帝は12歳くらいで即位したが、少年ながらも金集めが好きで、178年に官位・爵位を売り出した。

2千石の官位は2千万銭、400石の官位は400万銭の値段だった。

霊帝は、官位を売って得た莫大なカネで遊びまくった。
彼は犬好きで、犬に冠や文官の服を着せて喜んだ。

皇帝も宦官も私利私欲しか頭にないので、民衆は収奪と搾取の対象となり、苦しめられた農民たちは土地を離れて流民となった。

天災も続いて、農村は疲弊しきった。

この結果、184年2月に「黄巾の乱」が起こったのである。

黄巾の乱は、「太平道」という新興宗教の下に集まった民衆の反乱であった。

太平道は、2世紀前半に于吉が始めたという。

于吉は、神から『太平清領書』という本を授かり、これを経典に布教して、教団を太平道と名付けた。

太平清領書は、前漢の末からある『太平経』とほぼ同じ内容だったようだ。

その内容は、陰陽五行の思想で、神降しの巫人の言葉が多く載っていた。

于吉は教会を建てて、病人には符水を飲ませて治療した。

『三国志』の孫策伝の注によると、200年に于吉は孫策に殺された。

于吉が孫策の所に来た時、孫策の目の前にいた諸将らの3分の2が于吉を出迎えに行き于吉に拝礼した。
孫策はこれを危険視して于吉を殺したのである。

『後漢書』や葛洪の『神仙伝』によると、後漢の順帝の時代に宮崇という人が『太平清領書』を順帝に奉呈した。

その後、桓帝の時代に、同書から学んだ襄楷という学者が、次の上奏文を出した。

「陛下は宮女を数千人も抱えているのに、未だに子供ができない。
どうか徳を修めて刑罰を減らし、子宝に恵まれますように。」

子宝に恵れないのは徳がないからで、行動を改めろと説いたわけだ。

『太平清領書』の教えは朝廷には受け入れられず、民間に流布していった。

張角は、黄巾の乱の首謀者で、冀州・鉅鹿郡(きょろくぐん)の出身である。

『後漢書』の皇甫嵩伝にこうある。

「張角は自ら大賢良師と称し、 黄老の道を奉持して弟子を養った。

彼に跪拝して罪を告白すれば、符水と呪文で病気を治療した。

張角は弟子8人を四方に送り布教させたので、10余年で信者は数十万人となり8州に広がった。」

『三国志』の張魯伝の注に、「太平道は、師が九節の杖を持ち、病人に過失を考えさせてから符水を飲ませた」とある。

九節杖とは神仙(仙人)のシンボルとなる竹杖を模したもので、太平道は不老長寿を教えに含んでいた。

当時は神仙が実在すると信じられており、不老長寿の術が真剣に探求された。

曹操のような合理主義者でさえ、周囲に方士を集めて、不老長寿の術に血まなこになった時代である。

不老薬とされる薬を飲めるのは、限られた上層階級の者だけだったから、貧農たちは太平道に魅かれたのである。

人災と天災で餓死の恐怖にさらされていた農民たちは、張角の教団に吸い寄せられた。

張角の教団は貧民の悩みに耳を貸したし、太平道に入った農民たちは初めて人間らしい扱いを受けた。

だからこそ黄巾の乱は、中国の8州で、中国の4分の3の地域で盛り上がったのである。

張角は、8州の信者たちを36区画に分けて、各区画に「方」というリーダーを置いた。

方には「大方」と「小方」があり、大方は1万人以上の信者を、小方は6~7千人の信者を統率した。

また方たちは、「渠師」(きょすい)という命令実行者を従えた。

方たちの上には、張角とその弟である張宝と張梁が君臨した。

黄巾の乱が始まる7~8年前に、司徒の職にあった楊賜は、こう上奏している。

「張角らは恩赦を受けながら改悛せず、その勢いはますます盛んです。

もし彼らを討伐すれば、かえって世を騒がせるでしょう。

各州の長官に命じて、流民を元の住所に帰せば、彼らは弱まるでしょう。」

これを見ると、当時から張角は勢力をたくわえ、政治圧力も受けていたと分かる。

張角らは挙兵する前に、「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」や、「甲子の年は昔から革命があり、天下に大吉がもたらされる」との流言を広めた。

黄巾の乱が起きた184年は甲子の年で、甲子の年は昔から革命が起きる年と信じられていた。

太平道の大方の1人である馬元義は、張角とこの年の3月5日に挙兵する約束をし、準備を進めた。

馬元義は、冀州の鄴の都を攻めるため、兵士を集めた。

さらに馬元義は、首都・洛陽の朝廷にいる宦官のうち、徐奉と封諝(ほうしょ)と密約して、情報をもらった。

ところが張角の弟子の唐周が、反乱計画があると密告した。
朝廷は洛陽にいた馬元義を捕まえて、みせしめに街中で車裂きで処刑した。

霊帝の命令で、洛陽にいる張角の信者が探索され、容疑者となった千余人が処刑された。

洛陽の状況を知った張角は、挙兵日を早めて、各地の「方」にいっせいに挙兵するよう命じた。
こうして184年2月に黄巾の乱が始まった。

総数40万人が反乱軍兵士となり、各地で官府を焼き払い、町村で略奪した。
地方長官の多くは逃亡した。

張角の反乱軍は、頭に黄色の鉢巻をし、黄色い旗を立てていた。
そのため「黄巾軍」と呼ばれた。

黄色を選んだのは、五行思想に基づいていた。

五行思想は、宇宙は5つの元素が循環していると考えて、木→火→土→金→水→木→火という順番で循環していくと考える。

張角たちは後漢王朝を火の王朝と見て、それに代わるのは土の王朝だと考えた。

色で言えば、火は赤、土は黄であった。

朝廷は黄巾の乱が起きると、皇后の兄である何進を大将軍に任命した。

3月の朝廷会議で、北地太守の皇甫嵩が、2つのことを霊帝に求めた。

党錮の禁を解くことと、霊帝の持つカネと馬を放出して軍士に与えることである。

霊帝は受け入れて、4日後に党錮の禁は解かれ、清流派の知識人たちに大赦令が出た。

ただしこの大赦令は、張角だけは除外された。

張角は反乱を起こした人なので、彼の伝記・経歴は史書から抹殺されている。
だが大赦令から除外された事実から、彼も党錮の禁で官界から追放された1人だったと見ていい。

朝廷は黄巾の乱の直後に、党錮の禁で追放していた知識人たちに大赦令を出し、官職に取り立てる策に出た。

この事は、在野に置かれた知識人たちが反乱に加わる動きを見せたことを示唆している。

党人(清流派の知識人)たちが黄巾軍に加わると朝廷が恐れたのは、張角が彼らの1人だったからだ。

『後漢書』の張譲伝に、郎中の張鈞が霊帝に出した上奏文が載っている。

「張角が兵乱を起こし、そこに多数の民衆が参加した原因は、宦官たちが家族や親族を地方政府の要職につけて、私財の蓄積を図り、民衆を苦しめたからです。

従って宦官の主だった者を斬って首をさらし、民に謝罪の布告をすべきです。

そうすれば軍隊で討伐しなくても反乱は鎮まります。」

上の上奏文で張鈞は、権力を握る宦官たちを「十常侍」と名指ししているが、正確には張譲、段珪ら12人だった。

この上奏文に対し霊帝は、張鈞のことを「真の狂子なり」と言って、完全否定した。

張譲たちは霊帝の態度を後ろ盾に、密かに手を回して張鈞を逮捕させ、獄中で拷問死させた。

黄巾討伐軍の司令官には、盧植、皇甫嵩、朱儁が任命された。

だが184年3月中に、南陽郡大守の褚貢が、黄巾軍の将軍・張曼成に殺された。

4月に入ってからも、幽州刺史の郭勲、広陽太守の劉衛が黄巾軍に殺された。

皇甫嵩と朱儁は4万余りの兵を率いて、潁川郡と汝南郡の黄巾軍討伐に向かった。

ところが朱儁軍は、波才の率いる黄巾軍に大敗した。
そこで皇甫嵩は、長社城に立てこもった。

波才軍は長社城を包囲したが、皇甫嵩は冷静だった。
黄巾軍が草原の真中に陣を作っているのを見て、夜襲をかけて火攻めにした。

黄巾軍が浮き足だったところに、騎都尉の曹操が洛陽から近衛軍を率いて駆けつけ、朱儁軍も合流したので、皇甫嵩は大勝利した。

上の合戦を見た護軍司馬の傅燮(ふしょう)は、上奏文にこう書いた。

「黄巾軍は朝廷の憂いにはなりません。
むしろ権勢を張り忠臣を退ける宦官どもが問題です。」

霊帝はこれを読んでも、宦官に全く手をつけなかった。

皇甫嵩と朱儁は攻勢をかけて、波才を追撃し、彭脱の軍をせん滅し、黄巾軍の将軍・卜己(ぼくき)を捕まえた。

一方、河北に向かった盧植軍も、張角軍を破って1万余人の黄巾兵を捕えて、服従しない者は殺した。

逃げた張角は、故郷の鉅鹿郡に近い広宗城に立てこもった。

盧植は広宗城を包囲したが、視察に来た宦官の左豊に賄賂を贈らなかったばかりに、窮地におちいった。

左豊は洛陽に戻ると、霊帝に「盧植は守りを固めるばかりで、いっこうに撃って出ません」と讒言した。

霊帝は激怒し、盧植は囚人車に入れられて洛陽に戻され、流罪となった。

後に盧植は、皇甫嵩のとりなしで復職した。
さらに後、董卓が権力を握って皇帝を交代させようとした時、盧植はただ1人反対して免職になった。

盧植が讒言で流罪になると、張角討伐は董卓に任された。

しかし董卓は敗れて解任され、皇甫嵩が当たることになった。

184年10月に皇甫嵩は広宗城に向かったが、この時すでに張角は病死しており、弟の張梁が城を守っていた。

皇甫嵩は黄巾軍を破り、張梁を斬り殺して、首級3万をあげた。

黄巾軍は、河に身を投じて死ぬ者が5万人を超え、残りの兵士および一緒にいた婦女たちは降伏した。

皇甫嵩は張角の墓をあばいてその死体を斬り、首を洛陽に送った。

同年11月に皇甫嵩は、鉅鹿郡太守の郭典と共に張宝軍を攻めて、張宝ら10余万人の首級をあげた。

皇甫嵩は士卒をかわいがり、士卒の陣ができてから自分の宿舎に入り、士卒が食事を終えてから自分が食事した。
こうした態度で兵の士気が高まり、大功をあげることができた。

なお、張宝が破れた時にも、婦女たちが降伏している。
黄巾軍が女性や子供も交じる民衆の反乱だったと分かる。

張角、張梁、張宝の3人が死んでからも、黄巾の乱は続いた。

30年にわたって太平道と、それに類似する五斗米道は、反権力の戦いを続けた。

これが後漢朝を崩壊させ、三国時代を生んだのである。

話を少し戻すが、黄巾軍の張曼成は、184年3月に南陽郡太守の褚貢を殺すと、宛城を占拠した。

褚貢の後任の秦頡(しんきつ)は、張曼成を攻め殺した。
だが黄巾軍は趙弘を新たな指導者にして、兵力は10余万人に拡大した。

184年6月に朱儁は、荊州刺史の徐璆(じょきゅう)と秦頡の協力を得て、1.8万人の兵で宛城を包囲した。

だが2ヵ月しても城を落とせず、趙弘は討ち取ったが、黄巾軍は韓忠を後釜にすえて宛城を守り続けた。

朱儁がなんとか宛城を奪うと、韓忠らは近くの小城に逃げ込んだ。

韓忠は降伏を申し出たが、朱儁は拒否し、韓忠軍を打ち破って韓忠ら1万余人を殺した。

それでも黄巾軍は、新たに孫夏を指導者にして、宛城に再び立てこもった。

朱儁はこれも破り、宛城から逃げた孫夏を粉砕した。

予州刺史の王允は、赴任地で黄巾軍を破った。
この時に、朝廷の大物宦官である張譲の食客が黄巾軍と内通している書状を見つけた。

王允はこれを霊帝に届けたが、張譲が陳謝すると霊帝はあっさり許してしまった。

この件で張譲は王允を恨み、根も葉もない中傷をして王允を投獄した。

一方、皇甫嵩は張梁らを破った後、冀州の鄴城に入ったが、そこに宦官の趙忠が規則破りの豪邸を建てているのを見つけ、霊帝に報告した。

張譲はかつて、5千万銭を賄賂として皇甫嵩に要求したが、断られていた。

そこで趙忠と張譲は、「皇甫嵩は多大な戦費を使いながら、戦績が良くない」と霊帝に説いた。

霊帝はこれを信じて、185年5月に皇甫嵩を解任し、その封邑から6千戸を削った。

黄巾の乱が起きると、張燕も呼応して兵を集め、山谷で暴れた。

張燕軍はついに100万人まで膨れ上がり、黒山軍と称した。

これを誰も討つことができず、朝廷は張燕を平難中郎将に任命して、黄河以北の山谷の支配を認めた。

張燕は冀州・常山郡の出身で、趙雲と同郷の人である。
彼の軍は宗教色はなく、野盗集団と見ていい。

後に反董卓の連合軍が結成された時、張燕も大軍を率いて参加した。

彼は曹操と結び、平北将軍に任命された。

皇甫嵩と朱儁が討伐したことで、黄巾軍は一時は鳴りをひそめた。
だが187年にまた活動を始めた。

この年の10月、長沙の黄巾軍を率いる区星(おうせい)に対し、朝廷は孫堅を長沙太守に任命して討伐させた。

188年2月には、郭太(かくたい)が率いる黄巾軍が白波石で蜂起して、「白波軍」と称した。

白波軍は、洛陽のわずか500里の河東まで侵入し、10万余の大軍となった。

188年9月に白波軍は、匈奴の南単于と協力して、再び河東を占領した。

彼らは189年に、菫卓が派遣した牛輔軍を撃破し、その後も暴れ続けた。
これが191年の長安遷都の一因と言われた。

188年には益州でも、馬相や趙祗の率いる黄巾軍が暴れたが、これは五斗米道の教国、張魯のページに書く。

188年10月に、青州と徐州でも黄巾軍が蜂起した。

これはどんどん大きくなり100万人まで達したが、曹操が討伐するまで3年半にわたり暴れ回った。

188年中に青州・徐州の黄巾軍は、孔融が統治している北海国を攻め、孔融の居城を落とした。

孔融は逃げのびて、近くの平原国の相をしている劉備に手紙で助けを求めた。
劉備は3千の兵を派遣して黄巾軍を撃退した。

191年2月に青州の黄巾軍は、太山郡を攻めたが、太守の応劭(おうしょう)が撃退した。

すると黄巾軍は、渤海の黒山軍と合流する動きを見せた。

公孫瓚はこれを迎え撃ち、首級3万余の大勝利をした。

公孫瓚は敗走する黄巾軍を追い、数万人を殺して7万人を捕虜にした。

この功績で朝廷から奮武将軍に任じられ、薊侯(けいこう)に封じられた。

青州の黄巾軍は半年足らずで100万人の数に復活し、今度は兗州に襲いかかり、まず192年4月に任城国の相(長官)の鄭遂を殺した。

兗州牧の劉岱は迎え撃とうとしたが、済北国の相の鮑信がこう助言した。

「賊は100万人の軍勢で、我々はとても相手になりません。

賊軍は烏合の衆で、輜重もなく掠奪で兵糧を補給しています。
ですから守りを固めていれば奴らは兵糧がなくなり離散します。

その時を待って攻撃すれば容易に打ち破れます。」

だが劉岱は聞き入れず、合戦して討ち死した。

劉岱が死ぬと鮑信は、曹操を迎え入れて兗州刺史にすえた。

ところが曹操軍も黄巾軍に敗れてしまった。
鮑信はこの戦いで戦死した。

曹操が青州黄巾軍を破ると、黄巾軍は黄老信仰の保証を条件に降伏を申し出た。

曹操は条件を飲み、兵土30余万人、兵士以外の100余万人を受け入れた。
そして兵土のうち精鋭を自軍に入れて「青州兵」と呼んだ。

青州兵は精強で、曹操軍の中核となった。

(2025年5月4、11、12日に作成)


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