(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)
194年に入ると、涼州にいる軍閥の馬騰と韓遂は、朝廷(長安の都)を支配しようと考えて、兵を率いて長安を目指した。
彼らを煽動したのは、益州に独立国を築く劉焉であった。
劉焉は、馬騰と韓遂に兵を貸し与えて、「君たちが攻めるのに合わせて、長安にいる息子たちに内応工作させる」と約束した。
長安の朝廷には、劉焉の息子の劉範と劉誕が仕えていて、种卲や馬宇といった要人の同志もいた。
劉焉は彼らを使うことで、朝廷を支配する李傕たちを倒し、自分が支配者になろうとした。
ところが馬宇の従者がこの陰謀をもらしてしまい、内応者たちはことごとく殺された。劉範と劉誕も殺された。
李傕らは馬騰たちの軍を急襲し、馬騰・韓遂軍は敗走した。
兗州を支配する曹操は、父親(曹嵩)を殺されたことで徐州刺史の陶謙を深く恨み、徐州に攻め込んだ。
そして彭城を攻めたさいは数十万人の住民を殺し、泗水に投げ込んだ。
曹操軍は、徐州の各地で虐殺と掠奪を行い、「鶏犬すら尽き、廃墟に人影なし」という状況になった。
陶謙は近くの領主たちに救援を求めたが、(青州の)平原国の相をする劉備が応じて兵を率いて徐州に来た。
陶謙も劉備も、公孫瓚の派閥に属していた。
194年4月に曹操は軍糧が尽きたので兗州に一度戻ったが、再出撃の準備を進めた。
そして6月に再び徐州を攻めた。
劉備は陶謙の部将・曹豹と共に郯(たん)の東に陣をしいたが、曹操軍はそこを突破して襄賁(※じょうひと読むらしい)を攻め落とした。
曹操が徐州で虐殺を続ける中、兗州の陳留太守をする張邈(ちょうばく)と、曹操配下の陳宮は、河内太守・張楊の所に身を寄せていた呂布を招いて、兗州を奪うことにした。
張邈は曹操の親友だったが、徐州で曹操が虐殺に明けくれるのを見て失望し、呂布に鞍替えした。
呂布たちは短時間で兗州のほとんどを支配下に入れたが、荀彧の守る鄄城(けんじょう)などは曹操側に留まった。
兗州に戻ってきた曹操軍は、呂布軍と対峙した。
7月になると、いなごの大群が兗州に現われて、次々と作物を襲い始めた。
『後漢書』には、「食べるものが無くなり、人々は互いに食べ合い、白骨が積み上がった」と書いている。地獄絵図である。
呂布軍は食糧を求めて東に向かい乗氏県に行ったが、土地の豪族・李進に追われて、さらに東の山陽にたどり着いた。
曹操軍が去った後の徐州では、194年12月に陶謙が病没し、劉備が後を継いで徐州の牧(長官)となった。
195年2月に、南匈奴の首長オフラは重病になった。
この時期、彼の軍勢は司州(司隷)にある平陽城を占拠して駐屯していた。
オフラの息子・豹は13歳になっていた。
194年に13歳で元服した献帝は、195年の4月に伏完の娘と結婚した。
伏完は名門の出で、桓帝の娘を妻にした人である。
この頃の長安は、李傕、郭汜、樊稠の3人が権力者で、それぞれが勝手に「府」を開いていた。
府とは、朝廷とは別に独自の行政をする役所で、日本では幕府という名でつくられた。
李傕は、樊稠が将兵から人気があるので恐れて、会談の席に樊稠を招いて刺し殺した。これが195年の2月であった。
いっぽう郭汜は、李傕の家の女中と不倫した。
これに怒った郭汜の妻は、その女中と破局させるため、李傕から贈られた食べ物に毒を入れた。
妻は「樊稠さんが李傕さんに殺されたから心配です。毒見しましょう」と夫に言った。
郭汜は笑って、「私と李傕は子供の頃からの友人だ」と言ったが、犬に毒見させたところ犬が倒れて死んだ。
それ以来、二人は不和となった。
李傕は傀儡の幼帝・献帝を独占しようとし、甥の李暹(りせん)に宮殿を襲わせて献帝を連行し、自邸に監禁した。
この時、李暹は宮殿に火を放った。
一方、郭汜も三公(朝廷の宰相)である司空の張喜や太尉の楊彪を自邸に監禁した。これが195年3月のことだった。
前述した195年4月の献帝と伏完の娘の結婚は、このような状況下なので、実は李傕の自邸で行われた。
郭汜軍が李傕軍を夜襲した時、かつては白波谷の黄巾賊で今は李傕の客将をする楊奉が活躍し、李傕軍を撃退した。
ところが楊奉は李傕を謀殺しようと計画し、これがバレて逃亡した。
李傕と郭汜が戦争する中、東から鎮東将軍の張済がやって来た。
張済も李傕や郭汜と同じく、元は董卓の部将である。
張済は長安の東方にある司隷・弘農郡に駐屯して、前線を守る司令官になっていた。
だが長安で内戦が続いているので、自分が長安の主人になれるのでは、と野心を抱いて長安に来た。
張済の調停で、李傕と郭汜は和解し、献帝も解放された。
献帝は長安での内紛にうんざりし、東にあるかつての首都・洛陽に戻りたいと公言するようになった。
いっぽう張済は、長安を手に入れるつもりだったが、来てみると長安は悪政のため飢餓に苦しむ住民で溢れており、住民は四散しつつあった。
張済はがっかりした。
献帝は洛陽に移住するため、195年7月1日に長安を出た。
だが献帝は宮殿育ちの坊ちゃんだし、皇帝なので女官を含めたお付きの者が多く、食糧難の中なので、ゆっくりしか進めなかった。
それで8月6日にようやく長安の東40kmの新豊に着いた。
新豊では、数千の兵を率いて楊奉が現われ、献帝の警固を申し出た。
さらに旧牛輔軍を董承が率いて現われ、同じく警固を申し出た。
献帝は喜び、楊奉と董承を将軍に任命した。
董承は、霊帝の母である董太后の甥で、献帝にとっては祖母の甥にあたる。
郭汜は献帝を奪うための奇襲を計画したが、事前に漏れてしまった。
焦った郭汜は、逃亡者の巣であり、先日までは楊奉がこもっていた、終南山に逃げ込んだ。
体勢を立て直した郭汜は、10月1日に再び献帝を奪おうとして奇襲をかけた。
郭汜の部将の夏育と高碩(こうせき)が火を放ったが、董承軍が力戦して撃退した。
この後、献帝一行の将軍のうち、段煨(だんわい)と楊奉・董承が衝突し、内戦が10余日に及んだ。
内輪もめや食糧入手の困難さから、献帝一行が司隷・弘農郡に着いたのは11月に入ってからであった。
李傕・郭汜・張済の3人は、献帝を奪わないとそのうち自分たちが逆賊として討伐されると恐れ、同盟して献帝一行を襲うことにした。
李傕らが弘農郡にて献帝一行を襲うと、楊奉は「荷物を捨てて逃げろ!身軽になって急げ!」と指示した。
献帝とその側近たちは、自分たちの色々なものを車にのせて荷物として運ばせていた。
廷臣は「御物なので捨てられません」と反論したが、楊奉は「なにが御物だ。追いつかれたら死ぬぞ。そんなものは道にぶちまけてしまえ!」と怒鳴った。
楊奉は、荷物箱に入っている服や装飾品を道にばらまいた。
金目のものをまいておけば、相手の兵士はそれを奪い合い、追撃の速度がにぶる。
楊奉の柔軟な対応により、献帝たちは捕まらずに逃げのびた。
まだ14歳の献帝は襲撃にすっかり参ってしまい、「李傕たちに休戦するよう詔書を送りたい」と言って、使者を送った。
その間、楊奉は元は白波谷の黄巾賊だが、白波谷に使者を送って、かつての仲間たちに救援を依頼した。
この時の白波谷賊の幹部は、胡才、李楽、韓暹だったが、救援依頼を承諾し、この件を平陽城にいる南匈奴のオフラにも知らせた。
白波黄巾賊と南匈奴の連合軍は南下して、休戦交渉に入って休んでいた李傕たちの軍に襲いかかった。
奇襲された李傕らは大敗し、はるか西へ後退した。
張済は後退する時、「詐欺天子め!我々を騙しおったな!」と毒づき唾を吐いた。
李傕・郭汜・張済の連合軍は、増援を得て立ち直り、12月に再び献帝一行を襲ったが、この時は李傕側が大勝した。
この戦いでは、献帝の側は、光禄勲の鄧淵、延尉の宣璠、少府の田芬(でんふん)、大司農の張義と、九卿のうち四卿が戦死した。士孫瑞も戦死した。
司徒の趙温と太常の王絳(おうこう)は捕虜となった。
乱戦の中、献帝に従う者は百人に満たなくなった。
舟で黄河を渡ることになったが、1舟しか見つからず30人しか乗れない。
そこで董承は、符節令の孫徽(そんき)にこう命じた。
「舟には30人しか乗れない。人数を減らせ。なるべく下賤の者を斬れ。」
孫徽が白刃を降り下すたびに鮮血が飛び、伏皇后の衣服にもかかった。
史書は「従者たちを殺し、その血は皇后の衣にそそいだ」と記している。
30人になり舟が出発すると、乗っていた孫徽は胡才により舟から突き落とされた。12月の酷寒なので水中に落ちた者はみな凍死してしまった。
献帝たちは黄河を渡り、河内太守の張楊や河東太守の王邑に保護された。
献帝は胡才が今回の逃亡劇でめざましい働きをしたとして、征東将軍の称号を与えた。
上記の乱戦の最中に、献帝に従っていた150人の宮廷女たちが、オフラの南匈奴軍に攫われた。
攫われた宮廷女の中に蔡琰がいた。
蔡琰は、父が大学者の蔡邕で才女として知られ、献帝が結婚した時に宮廷に召し出されて、幼い伏皇后の教育や、宮廷女たちの長をしていた。
蔡琰を含めた150人は、オララが拠点にしていた平陽城に連行された。
彼女たちは、匈奴の男たちの妻や妾にされた。
蔡琰はオフラの息子・豹の妾にされて、2人の子を生んだ。
なおオフラはこの人攫いの直後に病死し、弟の呼厨泉が単于(匈奴のボスの称号)を継いだ。
そして去卑が右賢王、豹が左賢王となった。(※これは副ボスの称号である)
上に記した献帝一行の旅は、史書の記述が混乱し、旅程がはっきりしない。
私(陳舜臣)の解釈では、曹陽で李傕たちに大勝したのが195年11月5日、李傕たちに大敗北したのが11月13日、黄河を渡り安邑に到着したのが12月3日だ。
蔡琰は攫われてから12年後に、曹操が身代金を出して買い戻した。
征束将軍の称号を得た胡才は、その後に彼に怨みを持つ者に殺された。
献帝たちは安邑で年を越して196年に入ったが、元号を「建安」に改元した。
献帝は洛陽に行くことを望んだが、李楽、韓暹、胡才、楊奉らは反対した。その理由は、安邑が彼らの縄張りに近かったからだ。
一方、菫承と張楊は洛陽行きに賛成した。
洛陽は董卓が放火して廃墟になっていたので、董承が張楊の援助を得て洛陽に宮殿を造り始めたのが、196年3月である。
この宮殿造りは、荊州を治める劉表も人員や資材を提供した。
兗州を治める曹操のところにも援助を求める使者が来たが、曹操は無視した。
というのも曹操は、自分が本拠地にしている許の町に献帝を迎える野望を持っていたからだ。
(以上は2025年10月14日に作成)