タイトル198年の中国情勢、呂布の敗死

(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)

198年に入ると、呂布から曹操に主君を変えた劉備は、沛城の城主に任命されて呂布と対峙していた。

呂布のいる下邳城の北にある(兗州の最東端の)泰山郡は、小さな軍閥が独立勢力として存在していた。

その軍閥は、臧覇(ぞうは)、孫観、呉敦(ごとん)、尹礼といった将が率いていた。

徐州を支配する呂布は徐々に力をつけていたので、この泰山の軍閥たちは帰順して配下となった。

198年3月に、曹操は前年の年末に続けて、再び張繡の討伐に出た。
そして張繡のいる穣城を囲んだ。

曹操の幕僚には、「張繡は部下たちが飢えたので劉表の傘下に入りました。しかし劉表は満足な食糧を与えておらず、いずれ張繡はまだ独立するでしょう。その時に討つべきです」と助言する者もいた。

だが曹操は、「殺された息子(曹昂)や典韋のとむらい合戦をやらねば軍の士気が上がらぬ」と言って強行した。

4月、曹操軍が穣城を囲んでいるスキを付いて、袁紹軍が許都(許昌、曹操の本拠地)を襲おうとした。

そこで曹操軍は退却したが、張繡軍は劉表軍と連絡して共同で追撃し、打撃を与えた。

8月、今度は呂布が、劉備の守る沛城を攻めた。

呂布と劉備は元は仲間だが、それなのに呂布が攻めたのは次の事件が影響していた。

呂布は内モンゴルの出身で、呂布軍の強さは騎兵隊の強さに依っており、優秀な馬を多く必要とした。

そこで呂布は北方に住む匈奴から馬を買うため人を派遣していたが、買ってきた馬が 沛城の近くで奪われる事件が起きた。

呂布は劉備に返すよう要求したが、劉備は「身におぼえがない」と突っぱねた。
これが呂布が攻めた一因であった。

劉備は、主君の曹操に救援を求めた。

曹操は援軍を送ったが劉備は敗れて、9月に沛城を捨てて逃げた。

この時、劉備の妻子が呂布に捕まった。
劉備の妻子が呂布の捕虜となったのは、これで2回目だった。

劉備が敗走したと聞いた曹操は、「私が全軍を率いて呂布を討つ」と言い、許都から出陣した。

敗走の劉備軍は、梁の地で曹操軍に合流した。

曹操軍は沛城は素通りして、彭城を攻めた。

呂布の参謀をする陳宮は、「今こそ出撃すべきです」と進言したが、呂布は出撃しなかった。
呂布は曹操軍の疲弊を待つことを選んだのである。

ところが呂布の部下で、かねてから曹操に通じていた陳珪・陳登の父子が、この時とばかりに兵を率いて曹操軍に合流してしまった。
彭城は10月に落ちた。

曹操は、呂布のいる下邳城を攻めるにあたり、「呂布軍に馬を使わせるな」と指示した。

そして呂布軍の得意な騎兵戦が出来ない場所に、陣地を構えた。

ここで曹操のもとに、「河内郡太守の張楊が、呂布の救援に出兵した」との報告があった。

呂布はかつて張楊の所に身を寄せていた時期があり、張楊は「その交誼を重んじて義として援兵を送る」と語った。

だが実際には呂布のいる徐州は遠いので、出兵して許都を攻める素振りを見せるにとどまった。

曹操は、張楊の所に自分の息のかかった楊醜を置いていた。
楊醜は張楊を殺した。

すると張楊の部将の眭固(けいこ)がすぐに楊醜を殺して、全軍を率いて袁紹の所へ走った。

※ここから呂布が敗れて処刑されるまでは、呂布の生涯②に詳しく書いたので省略する。

上記したが、劉備は沛城に妻子を残して逃げた。これはあまりに不人情すぎる。

そこで私(陳舜臣)は、次のように推理する。

劉備は曹操の配下になりつつ、裏では呂布にも通じていた。

沛城は呂布のいる下邳城からそれほど離れておらず、呂布から攻められない工夫が必要だ。
だから呂布の機嫌を取るため、人質として下邳城に妻子を送っていたのだ。

つまり劉備の妻子ははじめから下邳城に居た。

上のように推理すると、降伏し捕縛された呂布が曹操の面前で、「この大耳野郎(劉備)が一番信用できない」と劉備を罵ったのも、より強い響きを持つ。

また『献帝春秋』によると、捕縛された呂布が曹操のところに引ったてられて来た時、そこにいる劉備が一言も発しないので、呂布は「何とか言ってくれてもいいじゃないか」と不満を述べたという。

呂布が曹操に処刑されたのは、198年の12月だった。

曹操が全力で攻めて呂布を倒せたのは、ライバルの袁紹が公孫瓚と戦争していたからだ。

呂布が死んだ3ヵ月後(199年3月)に、袁紹は公孫瓚を攻め殺した。

さらに3ヵ月後に、袁術が病死した。199年6月のことだ。

こうして群雄のうち3人が、次々と死んだ。

(以上は2025年10月23日に作成)


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