218~219年の中国情勢(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)
218年(建安23年)は、献帝の住む許都における反曹操のクーデターで年が明けた。
曹操は許都から遠く離れた鄴都に住み、許都には丞相長史という所司代のような者を置いていた。
曹操は丞相長史に王必を任命して、皇帝たちを監視させていた。
公卿の金禕(きんい)が、吉本とその息子・吉邈、少府の耿紀(こうき)らとクーデターを計画し、王必邸を夜襲した。
だが王必は夜明けまでにクーデター軍を潰滅させた。
このクーデターは荊州の関羽が援助を約束していたらしいと分かり、曹操は怒った。
曹操は荊州の関羽を攻めたかったが、北方にいる匈奴が反旗をひるがえし、218年の後半になると劉備軍が漢中に出兵したので、その応戦に忙しかった。
匈奴の反乱は、曹彰(曹操の次男)が出向いて鎮圧した。
218年9月に64歳の曹操は、自ら兵を率いて長安まで行き、漢中に現れた劉備と対峙した。
219年1月に、漢中に駐留する魏軍の総司令官である夏侯淵は、劉備軍のいる定軍山を攻めようとした。
だが夏侯淵は、劉備の陽動策に引っかかり、東にいる張郃軍を助けるため援軍を送って自らが手薄になったところを黄忠軍に襲われて戦死した。
この敗報をきいた曹操は、長安から斜谷まで進んだ。
だか5月に兵を退き、漢中は劉備のものとなった。
劉備は219年7月に「漢中王」を名乗り、顧問役である太傅には許靖を、尚書令には法定を任命した。
諸葛亮は軍師将軍の昇進しなかった。
前将軍に関羽、後将軍に黄忠、右将軍に張飛、左将軍に馬超が任命された。
同年8月に劉備は、漢中を奪った勢いに乗って、荊州における曹操軍の拠点である樊城を関羽に攻めさせた。
樊城を守る曹仁は、于禁と龐徳に樊城の北方を守らせたが、長雨で漢水が氾濫し、孤立した于禁は関羽軍に降伏し、龐徳も捕虜となった。
関羽は龐徳の武勇を惜しみ、
「おぬしの兄弟の龐柔殿は蜀におられる。おぬしの旧主の馬超殿も今では蜀の左将軍だ。おぬしも降伏しろ。そうすれば一軍の将に取り立てられるぞ。」と説いた。
だが龐徳は降伏を拒絶したので処刑された。
于禁らが敗れたと知った樊城の曹仁は降伏も考えたが、城内にいる汝南太守の満寵が「もう少しがんばりましょう」と励ました。
だが曹操の任命していた荊州刺史の胡修や、南郷太守の傅方などは、関羽軍に攻撃されると降伏した。
(※この後、関羽が敗死するまでは、別記事に詳しく書いているので、ここでは省略する)
関羽が呉軍によって斬られたのは、『資治通鑑』では219年12月、『魏志・武帝紀』では220年1月と少しズレがある。
関羽軍を攻撃して破った呉軍は、総司令官が呂蒙で、副司令官が孫皎だったが、2人共に関羽を斬った直後に病死した。
さらに関羽の首が届けられて、それを葬った曹操も、220年1月に病死した。
当時の人々は一連の死を関羽の祟りと考え、関羽を祀るようになった。
そのいきさつは、日本の天神さんに相当するといえよう。
(2025年12月10日に作成)