(『世界の歴史20 中国の近代』市古宙三著から抜粋)
清朝が倒されて、中華民国が誕生すると、袁世凱は1912年3月に臨時大総統に就任した。
その後、12年12月から13年2月にかけて行われた、最初の国政選挙では、衆議院でも参議院でも与党の共和党が、野党の国民党に完敗した。
そこで袁世凱は、国民党の領袖である宋教仁を、13年3月に暗殺した。
1913年4月から国会が開かれたが、国会を無視する事件が相次いで起こった。
ことに国民党の議員を激昂させたのは、日本、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアの5ヵ国と結んだ、2500万ポンドの借款である。
袁世凱は、国会にはかることなく、臨時約法(当時の憲法)に背いて、巨額の借款を行った。
そしてその借金で、武器を買って軍を養い、議員を買収した。
借款に反対した国民党系の3人の都督、李烈鈞、胡漢民、柏文蔚は、罷免された。
国民党には、このような袁世凱の不法行為に対して、「あくまで法をもって争うべきだ」と説く者もいた。
黄興や陳其美である。
しかし「武力で当たるべきだ」とする者も多く、まず1913年7月に李烈鈞が挙兵した。
他にも挙兵があり、彼らは「討袁」を掲げた。
これが『第二革命』であるが、すぐに袁世凱の軍に敗れて、わずか2ヵ月で革命は跡形もなく消えてしまった。
袁世凱は、正式な大総統になるのを目指し、カネと地位で議員を買収して、「公民党」を立ち上げた。
1913年10月に、国会で大総統選挙が行われ、袁世凱が選ばれた。
次に袁世凱は、臨時約法(憲法)の改定を目指して、まず国民党を潰そうとした。
そこで各省の軍政長官や民政長官に密かに打電して、「国民党は解散せよ」「国民党議員を罷免せよ」と主張させた。
この地方の声に応ずるとして、袁世凱は国民党を11月に解散させて、議員資格も剥奪した。
国会を事実上葬った袁世凱は、別に政治会議を創り、その決議に従って1914年1月に国会を廃止し、各省の省議会と地方自治会も解散させた。
1914年5月には臨時約法を改定して、『中華民国約法」をつくったが、これは大総統の権力を著しく拡大させるもので、内閣制を廃して総統制にすることや、緊急命令権や財政緊急処分権を大総統が有すると決めた。
袁世凱はさらに、世襲の独裁君主になろうとし、政治会議に替えて参政院を創り、「総統選挙法」を改定して、次の内容にした。
①
総統の任期は、これまでの5年から10年に延ばし、重任も1回だけ可能だったのを無制限にする
②
参政院が総統の重任を決議したときは、改選の必要はない
③
総統の後継者は、現任の総統が推薦する
この「総統選挙法」の改定は、1914年12月末にされたが、専制君主の復活と言えた。
1915年に入ると袁世凱は、日本の出した「21ヵ条の要求」の処理で忙しくなった。
(※21ヵ条の要求については、『日本史の勉強』のこのページに書いてあります)
15年7月に21ヵ条の問題が一応解決すると、袁世凱は帝制を求める民意の形成に動いた。
そして参政院は11月に、国民代表大会を開いて、帝制の是非を決めることになった。
国民代表1993名が投票した結果、袁世凱は皇帝の座に就くことになった。
16年1月1日から帝制が始まることになり、、国名は中華帝国とし、洪憲元年に改元することも決まった。
袁世凱の帝制に対して、日本、イギリス、フランス、ロシア、イタリアは延期を勧告した。
中国国内でも、国民党系の人々はもちろん、袁世凱の子飼いの将軍である段祺瑞や馮国璋らも反対した。
副総統の黎元洪は、辞意を表明した。
1915年12月23日に、雲南省の唐継尭は帝制の中止を要求し、それがしりぞけられると雲南の独立を宣言して、討袁を掲げて進軍を始めた。
ここに『第三革命』の火ぶたが切られた。
16年1月には貴州が独立し、3月には広西省の陸栄廷も独立した。
国内外の帝制反対の高まりを見て、袁世凱は1916年3月22日に帝制の取り消しを発表した。
皇帝在位はわずか83日で、元の中華民国に国名も戻った。
討袁の動きは広がり、広東省、浙江省、陝西省、四川省、湖南省の各省が独立宣言した。
16年5月には、独立した省たちの統一機関として、「軍務院」が広東省の肇慶(ちょうけい)に創設された。
袁世凱は追いつめられる中で、1916年6月6日に死去した。
袁世凱が死ぬと、副総統の黎元洪が大総統に就いた。
黎元洪は臨時約法を復活させて、国会の召集も約束し、段祺瑞を国務総理に任じて組閣させた。
これを見て、討袁派たちは軍務院を撤廃した。
こうして8月に国会が開かれて、馮国璋が副総統に選出された。
しかし以後は、軍閥が争う内戦に入っていくのである。
(2022年8月19日に作成)