タイトルタラスの戦い(751年7月)

(以下は『紙の道』陳舜臣著から抜粋)

中国の唐朝では、西方を守る総督は「安西節度使」という官職だった。

8世紀の半ば、このポストには夫蒙霊詧(ふもうれいさつ)がいて、その下に副都護として高仙芝がいた。

高仙芝の父は叩き上げの将軍で、その息子ということで高仙芝は20代で将軍となった。
彼は747年に安西副都護として、1万の兵を率いて「小勃律」という国を攻め落とした。

小勃律は唐に服属していたが、国王の妻にチベット王の娘を迎えると、唐から離れた。だから攻められたのである。

小勃律が降伏すると、高仙芝は長安(唐の首都)の朝廷に報告書を送った。
だか本来は報告書を出す相手は、朝廷(中央政府)ではなく、上司の安西節度使である夫蒙だった。

高のした事に夫蒙は怒り狂い、激しく罵った。

これを見た、高の軍にお目付け役として従軍していた宦官の辺令誠は、皇帝に「高は大功を立てましたが、命を失うのではと恐れているので、ご配慮をお願いします」と報告した。

それで皇帝は夫蒙を長安に呼び戻し、高を安西節度使に昇進させた。

なお唐は、小勃律を「帰仁」と改名し、その王を右威衛将軍に任命した。

安西節度使になった高仙芝は、「石国が唐に対して属国の礼をとらない」と朝廷に報告し、「討伐したい」と願い出た。

石国は、現在のウズベキスタンの首都タシケントにあった国で、唐に服属しなかった。
そこで高は征服を皇帝に申請したのだが、許可された。

高は750年に石国を攻め、石国の王に対して「降伏すれば許される」と伝えて降伏させた。

だが石国の王は長安(唐の首都)に送られると、そこで殺された。

高ら唐軍は石国を降伏させると、財宝や名馬を奪い取った。

高仙芝は、高麗(朝鮮)の出身である。
だが高麗は唐と新羅の連合軍によって668年に滅ぼされたので、高が生まれた時にはもう存在していない。

なお高麗は668年に降伏し、王族たちは国王をはじめとして長安に連行された。

高麗は唐の直轄領となり、安東都護府(※行政府)が置かれた。

『資治通鑑』の669年の項には、こうある。

「高麗の民は唐朝に従わなかった。そこで(唐の)皇帝は勅命で高麗人のうち抵抗する3万8200戸を中国の僻地に強制移住させた。」

1930年代にソ連のスターリンは、沿海州に住む朝鮮族を中央アジアに強制移住させた。日本と内通するのを恐れたという。

強制移住という野蛮な措置が、残念ながら歴史の中で繰り返されてきた。

攻め落とされた石国の王子は、西方で大国となっていたイスラム教の国であるアッバース朝に救援を求めた。

これに応えてイスラム軍が出兵し、高仙芝の率いる3万の唐軍と戦ったのが、「タラスの戦い」である。

石国について説明すると、最も古い記述は554年に完成した『北魏書』に「者舌国」として出ているもので、437年に北魏に朝貢したとある。

玄奘三蔵の書いた『大唐西域記』(646年に完成)では、赭時国(しゃじこく)となっており、者舌も赭時も石を意味するイラン語の「チャーチ」からきているという。

『大唐西域記』は赭時国について、「城邑が数十あり、それぞれに首長がいるが、全体をまとめる大首長はいなくて、突厥に服属している」と述べている。

タラスの戦いは、唐軍にいたカルルク族がイスラム側に寝返ったことで、唐軍が大敗した。

敗れた唐軍は大勢が捕虜となり、その中に紙すき職人(製紙の職人)がいたことから、中国の製紙法が西アジアに伝わることになった。

なおこの戦いは、唐朝にとっては小事だったようで、『旧唐書』の本紀には記述がないし、『新唐書』でも「高仙芝らがタラス城にて戦い敗れた」とあるのみだ。

タラスの戦いについて中国側の史書は、こう書いている。

「高仙芝が石国を攻め落として王を捕まえ、王は長安に送られて斬られた。

これに怒った石国の王子が近隣国を誘ってアッバース朝を頼り、イスラム軍が来て戦争になった。

751年にタラスで戦いがあり、高仙芝の軍が敗走した。」

これに対しイスラム側の史料は、こう書いている。

「(アッバース家に敗れて)没落したウマイヤ朝の支持者たちが、唐の援助を受けて(アッバース朝に)反乱を起こした。

それをアッバース朝のサマルカンド知事が鎮圧したのが、タラスの戦いである。」

この戦争は、ウマイヤ朝とアッバース朝の戦争に高仙芝が介入したという面があった。

『資治通鑑』は高仙芝の石国攻めを750年12月としており、タラスの戦いは翌年7月であるから、一連の戦争と考えてよい。

タラスの戦いがあったのは、現在のカザフスタンのジャンブール市あたりとされている。

タラスで両軍は5日間対峙したが、カルルク族がアッバース軍に寝返ったことで、唐軍挟撃されて大敗した。

カルルク族は草原の遊牧民で、元は突厥族の一部だった。
彼らはしばしば唐に朝貢しており、高仙芝の軍(唐軍)に加わっていたのだが、寝返ったのである。
新興勢力のイスラムと結ぶほうが有利と見たのだろう。

長安に逃げ戻った高仙芝は、なぜか大将軍に昇進した。

不思議なのは、アッバース朝に従属した安国、康国、史国が、752年に長安に使節を送っていることだ。

アッバース朝も長安に使節を送っている。

タラスの戦いでイスラム軍(アッバース軍)を指揮したのは、ズイヤード・イブン・サーリフだった。

サーリフを派遣したのは、ホラーサーン知事のアブー・ムスリムであった。

カルルク族の寝返りは、アブー・ムスリムの調略が成功したからとの見方もある。

アブー・ムスリムは、イラン系の人で、元はホラーサーン生まれの馬具師であった。

彼は20代の時、742年にメッカに巡礼に行ったが、そこでアッバース家に雇われて、中央アジアでウマイヤ朝打倒の調略を始めた。

当時のホラーサーン知事はナスル・イブン・サイヤルだったが、アブー・ムスリムの暗躍で苦境になったのでイラク知事のメルワンに援軍を求めた。

だがメルワンは援軍を送らなかったので、ナスルはホラーサーンから逃げ出した。

アブー・ムスリムは、中央アジアのトルコ族を味方につけて勢力を拡げ、ウマイヤ朝につく者たちを60万人も殺害した。

イラン系の人たち、特にタジク族はウマイヤ朝について戦ったようだ。

アブー・ムスリムは、ウマイヤ朝につく人々を大虐殺して、中央アジアをアッバース方にした。
だからアッバース朝の実質的な創建者と見る歴史家も少なくない。

タラスの戦いの直後に、アッバース朝の初代カリフ(※カリフとは最高指導者、国王のこと)になったアブル・アッバースの兄である、マンスールが中央アジアを視察した。

マンスールはアブー・ムスリムの権威の強さを見て危機感を持ち、帰還するとカリフに「アブー・ムスリムを殺さないとアッバース朝は安定しない」と助言したようだ。

それでアブー・ムスリムを倒すよう、タラスの戦いにも参加したズイヤード将軍に密命が下されたが、ズイヤードは挙兵したものの鎮圧され処刑された。

754年にアブル・アッバースは死去し、兄のマンスールが第2代カリフに就いた。

マンスールの母は奴隷で、アブルの母は自由民だったから、アブルのほうが弟なのに先にカリフになったという事情があった。
だがマンスールの方が有能だったようだ。

マンスールはアブー・ムスリムを弱体化させるため、ホラーサーンから離そうとし、シリアとエジプトの知事に任命した。

だがアブー・ムスリムはこれを拒み、居すわった。

マンスールは別の者をホラーサーン知事に任命して、アブー・ムスリムに自分の宮廷に来るよう命じた。

アブー・ムスリムは仕方なく出向いて謁見したが、マンスールの玉座近くで5人の刺客に襲われて殺された。755年のことだった。

タラスの戦いはアッバース軍が勝利したが、捕虜となった唐の兵士に紙をつくる技術者がいて、これをきっかけにアジア大陸の中部や西部まで製紙法が伝わったというのが定説になっている。

だがウズベキスタンのアカデミーの学者たちは、タラスの戦いの前に製紙法が伝わっていたとの意見で一致している。

タラスの南に三百余戸の中国人が住んでいることを、

(以上は2026年1月18日に作成)


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