タイトルタラスの戦い

(以下は『紙の道』陳舜臣著から抜粋)

中国の唐朝では、西方を守る総督は「安西節度使」という官職だった。

8世紀の半ば、このポストには夫蒙がいて、その下に副都護として高仙芝がいた。

高仙芝は747年に、1万の兵を率いて「小勃律」という国を攻め落とした。

小勃律は唐に服属していたが、国王の妻にチベット王の娘を迎えると、唐から離れた。だから攻められたのである。

高仙芝は、この戦功で安西節度使に昇進したが、750年に今度は石国を攻め落とした。

石国は、現在のウズベキスタンの首都タシケントにあった国で、唐に服属しないので攻められた。高が征服を皇帝に申請して許可されたという。

高は石国の王に対し、「降伏すれば許される」と伝えて降伏させた。

だが石国の王は長安(唐の首都)に送られると、そこで殺された。

高ら唐軍は石国を降伏させると、貯めてあった財物を奪った。

石国の王子は、西方で大国となっていたイスラム教の国であるアッバース朝に支援を求めた。

これに応えてイスラム軍が出兵し、高仙芝の率いる3万の唐軍と戦ったのが、「タラスの戦い」である。

石国は、最も古い記述は554年に完成した『北魏書』に「者舌国」として出ているもので、437年に北魏に朝貢したとある。

玄奘三蔵の書いた『大唐西域記』(646年に完成)では、赭時国(しゃじこく)となっており、者舌も赭時も石を意味するイラン語の「チャーチ」からきているという。

『大唐西域記』は赭時国について、「城邑が数十あり、それぞれに首長がいるが、全体をまとめる大首長はいなくて、突厥に服属している」と述べている。

タラスの戦いは、唐軍にいたカルルク族がイスラム側に寝返ったことで、唐軍が大敗した。

敗れた唐軍は大勢が捕虜となり、その中に紙すき職人がいたことから、中国の製紙法が西アジアに伝わることになった。

なおこの戦いは、唐朝にとっては小事だったようで、『旧唐書』の本紀には記述がないし、『新唐書』でも「高仙芝らがタラス城にて戦い敗れた」とあるのみだ。

高仙芝は、高麗(朝鮮)の出身である。
だが高麗は唐と新羅の連合軍によって668年に滅ぼされたので、高が生まれた時にはもう存在していない。

なお高麗は668年に降伏し、王族たちは国王をはじめとして長安に連行された。

高麗は唐の直轄領となり、安東都護府(※行政府)が置かれた。

『資治通鑑』の669年の項には、こうある。

「高麗の民は唐朝に従わなかった。そこで(唐の)皇帝は勅命で高麗人のうちの抵抗する3万8200戸を中国の僻地に強制移住させた。」

1930年代にソ連のスターリンが、沿海州に住む朝鮮族を中央アジアに強制移住させた。日本と内通するのを恐れたという。

強制移住という野蛮な措置が、残念ながら繰り返されてきた。

(以上は2026年1月18日に作成)


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