タイトル安禄山の反乱など

(以下は『紙の道』陳舜臣著から抜粋)

タラスの戦い(751年)が中国の西方であった頃、中国の東部では安禄山が契丹(きったん)軍と戦っていた。

安禄山は、父はソグド人で、母は突厥の人だったという。
(つまり両親が漢民族ではない)

彼について『新唐書』には本姓は康とあるが、サマルカンド出身のソグド人は中国に来るとよく康姓を名乗った。

安禄山は軍功を挙げたのと、交際上手と賄賂作戦で、出世を重ねていった。
そして三道(幽州、平盧、河東)の節度使(長官)を兼ねるまでになった。

宰相にもなれそうだったが、楊貴妃の一族だから出世した楊国忠が「安は書物(古典)を知らないので宰相の器ではない」と反対したため、沙汰やみとなった。

やがて楊国忠が宰相となり、ライバルの安禄山をおとしいれようとしたので、安は反乱を起こした。755年のことである。

安の反乱軍が東から攻めて来た時、唐の朝廷は皇族の栄王琬を征討軍の元帥に任命し、副元師に高仙芝を任命した。
実質的な総司令官は高仙芝だった。

(※補足すると、高仙芝はタラスの戦いで唐軍を率いた将軍である)

高仙芝は、平地戦に強い安軍に対し、後退して潼関で迎え討つことにした。

彼は後退する際、官庫にあった金銭、食糧などを部下に分け与え、残りは焼き払った。安軍に奪われるのを防ぐためだ。

この事について、監軍(監視役)をしていた辺令誠は、「高仙芝は安易に後退し、官庫を開いて我が物とした」と報告した。

この報告を信じた玄宗(唐の皇帝)は、「高仙芝を斬れ」と命じ、高は処刑された。

(以上は2026年1月20日に作成)


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