唐と突厥の関係(以下は『紙の道』陳舜臣著から抜粋)
隋朝の時代の601年に、突厥の思力俟斤(しりきしきん)らが、 同じ突厥の男女6千人と家畜20万匹を掠奪した。
隋の文帝(隋の初代皇帝)は、楊素に命じて軍を派遣し、人畜を解放して元に帰した。
突厥は、トルコ系の遊牧民族である。
遊牧民は土を耕すのを嫌う。低級な営みだと思っていたらしい。
それで遊牧民には、人をさらってきて自分たちの嫌いな仕事をやらせる集団も出た。
あのチンギス・ハーンも、技術者(職人)たちを強制連行している。
隋朝の末期になると、戦乱となったので、それを避けて辺境の地に逃げる者が多く出た。
次の唐朝になってからの629年に、辺境の地から帰った者と、辺境に住む異民族で唐に降った者が、合わせて120万人もいたと史書にある。
『資治通鑑』の631年の項に、「突厥が唐に降伏すると、 唐の皇帝は使者を突厥に送って、金帛をもって突厥にさらわれた人々を買い取った。その数は男女8万人だった。」とある。
奴隷にさせられた人々を買い取って解放したのである。
同じ631年の事として、「唐の皇帝は使者を高麗に送り、隋朝の行った戦争で亡くなった骸骨を回収し、葬式をして祭った」とある。
隋の煬帝(ようだい、隋の2代目皇帝)は、3回も高麗(朝鮮半島の国)に出兵し、これが失敗して権威を失い、それが隋滅亡の主因となった。
唐は、前王朝の残した外交問題を解決したのである。
(以上は2026年1月20日に作成)