タイトル聯想 (Lenovo)の社史①

(『聯想 (Lenovo) 中国最強企業集団の内幕、上巻』凌志軍著から抜粋)

聯想の経営者である柳伝志は、1944年に上海に生まれた。

彼の父・柳谷書は、上海の中国銀行で働いた人で、共産党に入党し、最後には共産党政権下で中国特許代理公司の会長になった人だ。

柳伝志の母は、軍閥・孫伝芳の下で財政部長だった者の娘で、資産家の娘である。

中国においてコンピュータ事業が始まったのは、1956年である。

周恩来・総理が指導して策定した「科学技術発展計画」に、コンピュータ技術の確立も入った。
そしてソ連からコンピュータの専門家が顧問として招かれた。

ソ連は中国政府に対して、研究所を設立するよう急かし、中国科学院は「計算技術研究所」を1956年8月につくった。
当時の中国には、コンピュータを見たことのある者さえいなかった。

中国初のコンピュータ研究グループは、清華大学、上海交通大学、北京大学の学生から45人が集められてスタートした。

学生たちはソ連でコンピュータを視察し、帰国すると計算技術研究所に入所し、コンピュータをつくった。

中国初のコンピュータは「一〇三機」と呼ばれ、演算能力は毎秒30回だった。

曽茂朝は1957年秋に計算技術研究所に入所したが、後に所長となり、聯想の創業に重要な役割を果たす。

1960年になると、中ソの仲が悪くなり、ソ連の専門家たちは全員引きあげてしまった。

「一〇四機」は、中国初の大型コンピュータで、真空管を8000本も使用した。
この機械は、100平方メートルの部屋を占拠する大きさだった。

一〇四機は、天気予報、原子爆弾の開発などの計算に使われた。
このコンピュータは約20年、稼動した。

1960年代に入ると、トランジスタとIC(集積回路)が普及し始めた。

1961年に柳伝志は高校を卒業して、西安軍事電子工程学院に入学した。
この学校で有名なのは原子爆弾とミサイルの専攻で、柳伝志はレーダーの専攻が許された。

やがて、アメリカにイタリアから移民したフェデリコ・ファジンは、「マイクロプロセッサー」を生み出した。

これはチップから金属を排除してシリコンだけを原料にしたもので、シリコン膜の上に絶縁用の酸化物をコーティングした後、トランジスタの表面に浮遊させる。

従来のICは生産前に機能を固定させていたが、マイクロプロセッサーは生産後に機能を付加できた。

この発明の副産物として、1968年7月にインテル社が誕生した。

1968年に柳伝志は学校を卒業し、研究所でレーダーを研究することになった。

その後、1970年4月に彼は計算技術研究所に配属された。

中国では、1964年に核兵器の第1号が完成し、1970年に人工衛星の第1号が完成した。

どの国でも、コンピュータ事業は戦争目的でスタートしていて、中国も例外ではない。

1965年に誕生したコンピュータ「一〇九乙機」は、中国初のトランジスタ式のコンピュータだった。

1967年の「一〇九丙機」は、演算能力は毎秒11万回だった。

1974年にエド・ロバーツが、史上初のマイクロ・コンピュータ「アルテア 8800」 をつくった。

翌春にビル・ゲイツとポール・アレンは、アルテア用のプログラム言語を開発し、「マイクロソフト社」をつくった。

計算技術研究所が手がける最後の大型コンピュータは、「七五七工事」という名称で、 1976年にプロジェクトがスタートし、1983年にようやく完成した。

演算速度は毎秒1000万回だが、大きすぎて使いにくい代物だった。

この後からコンピュータの開発・生産は、民生用に転換した。

聯想は、1984年の秋に設立された。
場所は、計算技術研究所の1室だった。

聯想の第1回目の全体会議が行われたのは84年10月17日で、参加した11人は全員が計算技術研究所の出身者だった。

一番若い柳伝志が40歳で、最年長の王樹和は45歳だった。

会社の手元資金は、計算技術研究所の曽茂朝・所長が認めてくれた20万元だけだった。

この会社は、国家が所有した。

最初の会社名は、「中国科学院・計算技術研究所・新技術発展公司」だった。

上の11人は、コンピュータ開発にたずさわってきた者たちだが、パソコンの何たるか を知らず、どの方向に歩めばいいかも分かってなかった。

1984年10月20日に中国政府が発表した「経済体制改革に関する決定」は、前代未聞の内容だった。

「平均主義が氾濫すれば、社会の生産力を破壊する」

「一部の地区、一部の企業、一部の人が先に豊かになることを認め、これを奨励する」などが書かれていた。

1980年代の中頃になると、農村部にあった5万2789の人民公社はすべて解体されたが、農産品の生産量は逆に20%増加した。

1984年は、沿海の14都市が対外開放の宣言をした。

1980年代の中頃、北京とその周辺100kmには、70の大学と200を超える科学研究機関があり、30万人の大学生と10万人の科学者がいた。

1984年になると、北京の科学者たちは会社をおこすようになっていた。

この流れの中で聯想も設立されたが、計算技術研究所の曽所長は大株主になることを決め、人事権、財務権、経営方針決定権の3つを聯想の経営陣に与えることも決めた。
やがて聯想が成長すると、研究所に毎年配当が入るようになった。

聯想は、王樹和が社長、柳伝志と張祖祥が副社長となった。

計算技術研究所で社員を募集すると、すぐに50人が応募してきた。

聯想は手はじめに、電子時計、ローラースケート、冷蔵庫の闇商売を始めて、カラーテレビも扱おうとした。
だがカラーテレビを入荷するため14万元を送金したが 業者が消えて騙し取られてしまった。

経営は行きづまったが、中国科学院が保証人となり、計算技術研究所が借り入れ申請人となることで、銀行からカネを借りることができた。

1985年に聯想は、4つの案件で売上350万元、利益250万元を得た。
4つの案件とは、次のものである。

①大型コンピュータで、もともとは計算技術研究所が受注したもの

②中国科学院の購入したIBM製コンピュータの、メンテおよび研修

③IBM北京センターの代理業務

④漢字システム

漢字システムは、計算技術研究所にいた倪光南が1985年に聯想に入社してスタートした事業である。
倪は柳より5歳年上の先輩だ。

倪光南は有名な「LX-80 聯想式の漢字システム」を開発した人で、「倪がいなければ今の聯想はなかった」と言われるほどの功労者となる。

当時、中国語を識別できるコンピュータは1台もなかった。

倪の開発したものは、記という文字を打つとディスプレイ上に記者、記録といった聯想する一連の言葉が現れて、それを入力できるのが、他の漢字システムと違った。

これがないと、大量の同音語の中から入力する言葉を選び出さなければならない。 漢字は特に同音語が多い。

倪は入社する時点で、もう開発を終えており、他社に技術を売っていたが、当時の中国に特許という考えはなかった。

それで倪は聯想に入社し、改良を続けたのである。

なおこの時点でも聯想は計算技術研究所の中にオフィスがあり、漢字システムの開発資金も同研究所から60万元を融通してもらった。

1985年6月に聯想の漢字システムは最後のテストをパスしたが、中国政府へ出した製品化の申請書を見ると、「計算技術研究所が研究開発したもの」とある。

この頃、王樹和・社長は、元の職場に戻りたいと希望して、計算技術研究所に戻って曽所長の補佐となった。

そこで1986年7月に柳伝志が社長に昇格した。李勤が副社長を継いだ。

1986年と87年は、中国は動揺の最中にあった。
左派と右派の議論が絶えず、計算技術研究所には政府から何一つ仕事がこなかった。
計算技術研究所は大幅な人員削減を求められた。だから聯想の入社希望者は増加した。

当時は、輸入許可証がないと輸入ができなかった。

このため許可証の横流しで荒稼ぎでき、不正事件が数多く発生していた。

聯想もこの証可証を得ようと努め、パソコン輸入の代理業務を始めた。

柳伝志は政府の役人にご馳走したり、物品を贈っていたことを認めている。
彼は合法と非合法の間を歩いた。

1986年11月の時点で、聯想のLX-80漢字システムは、市場の1割のシェアしかなかった。

そこで漢字システムに注力することを柳伝志は決めた。

倪光南は漢字システムを改良していったが、データが消える、パソコンがフリーズするといったトラブルが多かった。

1987年に計算技術研究所から移籍してきた陳大有が、デバッキングをLX-80にする のを担当し、危険は解決した。

漢字システムは、国務院の四機部六所という部所が開発した「ソフト漢字システム」が大人気となり、市場の60%を占めた。

それでも聯想の商品も売り上げは伸びていった。
中国政府の改革開放政策によりパソコン全体の売り上げが増していたからだ。

中国では、企業が大儲けすると、たくさんの役人が会社を訪問しに来る。

聯想にも物価局の役人が来て、漢字システムの価格が高く暴利をむさぼっているとして、罰金100万元を言い渡した。

柳伝志は物価局の局長と副局長に接待し、罰金は40万元に下げられた。

目想のライバルの四通公司は、日本の三井物産と提携して、中国語のワープロを開発し、1987年5月に新商品「MS-2401」が発表された。

聯想は、1988年に香港に進出して支社をつくった。

香港では中国技術譲渡有限公司をパートナーにした。
この会社は国有企業で、 会長は柳伝志の父である柳谷書だった。

中国技術譲渡有限公司は、中国の特許譲渡事業で世界市場に参入し、柳谷書が会長だった1988~93年に5億元を稼いだ。

柳谷書は、自分の肩書きとコネを使って、聯想の資金調達を助けた。

この香港進出の時から、「聯想」という会社名を使い始めた。
(※前述のとおり、それまでの会社名は「中国科学院・計算技術研究所・新技術発展公司」である。)

聯想は、1988年5月の社員募集で、初めて計算技術研究所の外に門戸を開いた。
この時に初めて若者が入社してきた。

この当時、パソコンを輸入して売れば、粗利益は84%に達した。
そこで香港聯想は、アメリカのAST社との間で1千万米ドルの契約をし、パソコン3000台の輸入を取りつけた。
これに漢字システムを付けて売るのである。

当時、AST社は非常に有名だった。
アメリカの企業だが、創業者は2人の香港人と1人のパキスタン人で、マザーボードを生産してパソコンを組み立てて売っていた。

聯想は、稼いだカネでQuantum社という工場を買収し、パソコン用のボード、カードの製造に参入した。

柳伝志は、AST社を踏み台にして、パソコンを組み立てて売る事業を始めようとしていた。

1989年に聯想の漢字システムは、「国家科学技術進歩、一等賞」をとった。

本来は二等だったが、聯想の広報部の宣伝工作で一等賞となった。

聯想のものは最良の漢字システムではなかったが、メディアの記者を買収して利用し宣伝させたのが大きかった。

この直後、「聯想の漢字システムは自分が創った」と、かつて計算技術研究所にいて倪光南と同じ研究グループに属し、倪の上司だった竺廼剛がメディアで訴えた。

調べたところ、竺廼剛が開発したものと分かった。
彼が開発のリーダーで、倪は副リーダーだった。

柳伝志は真相をいち早く知ったが、会社の利益を優先した。
竺の訴えを黙殺したのである。

この時期、倪光南は聯想の自社製パソコン「286パソコン」の設計に没頭していた。 やっていたのは、マザーボートの製造と、パソコンの組み立てだ。
CPU、メモリーチップといった高難度のものは製造を避けていた。

1989年になると、パソコン所有者は全世界で6千万人に達して、需要が急増していた。

当時、中国では密輸が蔓延していた。
政府が高い関税を続けて、外国製品が入ってこないようにしていたからだ。

コンピュータ業界も密輸がはびこっていた。
パソコンの完成品の輸入税率は200%だったが、単品の部品ならば30%だった。

聯想の基盤は輸入ビジネスとなり、1986年に売上は1710万元だったが、88年には1億3050万元に増えていた。

聯想のパソコンは、輸入部品を組み立てたものだったから、柳伝志も密輸をするよう社員たちに命じた。
具体的には、直接の密輸はせず、密輸業者から部品を買うのである。

この事は、聯想のビジネスの最も後ろ暗いものの1つである。

聯想は1989年4月に、警察の立ち入り調査を受けた。

柳伝志は、関係先に賄賂を贈る、ボーナス税を取られないため社員に現金給付する、人民元を闇市で外貨に両替する、といった不正もしていた。

柳伝志は刑務所入りも覚悟した。

当時、中国政府はボーナス税を300%にした。
社員に支払うボーナスが給与の3ヵ月分を超えると、ボーナス1元につき3元の税金を国に収めなければならなかった。
この法律は1985年に施行された。

柳伝志はボーナス税を取られるのを嫌がり、現金で社員に渡してバレないようにしたのである。

だがバレて、税務局の調査が入り、柳伝志に脱税の容疑がかけられた。

柳は各方面に口利してもらい、罰金9万元ですんだ。

そもそも中国では、奨励金またはボーナスは、資本主義的と見なされて禁じられていた時期もあった。
それが1980年代初頭に、再び許可されたのである。

ちなみに聯想が1989年に社員に支払ったボーナス総額は、会社の純利益の20%分だった。

聯想は1989年11月に、会社名が正式に「聯想集団公司」となった。
それまでは「中国科学院・計算所公司」だった。

聯想のマザーボードやカード類は、100売ると20が返品されるほど作りが悪かった。

当時の生産ラインは、全て人力で、女性工員が手作業で1つ1つハンダ付けしていた。 CPUの160本の端子も工員が1本ずつハンダ付けしていた。

聯想はAST社のパソコンを売ることで、関税と販売費を差し引いても24%の純利益を得ていた。

AST社は、二流の会社だが、聯想が代理店を引き受けてから中国でシェア1位になっていた。
中国のユーザーは聯想の広告を信じて、一流ブランドだと思い込んでいた。

聯想は代理店ビジネスで稼いだカネを、自社製ボード・カードの損失に充てた。
そしてAST社パソコンに自社製パソコンが取って代わる機会をうかがった。

余談だが、代理店ビジネスは2種類ある。
1つは「ディーラー」で、ユーザーに直接販売する義務がある。
もう1つは「ホールセラー」で、別の仲介業者に販売することができる。

1990年3月に聯想の286パソコンは、中国政府から年5000台の生産を許す許可証を取得した。
ここから聯想の自社製パソコンの販売がスタートする。

聯想の李勤・副社長は、「もうASTのパソコンは売るな。当社のパソコンを売れ」と社員に命じた。

実のところ、286パソコンは、マザーボードとブランド名以外は、ASTパソコンと同一だった。

聯想は1989年10月に企業部を設立し、若手社員の陳恒六と孫宏斌(ソンコウヒン)に任せた。
この2人に郭為を加えて、新世代のエリートグループが形成されることになる。

だが孫宏斌は、柳伝志・社長と揉めて、5年の刑務所送りとなった。

柳の過去を見ると、自社の利益のためなら何でもやるとわかる。

柳は孫を監禁し、会社のカネを私的に流用していると当局に訴え出た。
柳は社員を脅しつつ、孫を有罪にもっていった。

1990年6月5日に孫は逮捕、収監された。そして公金流用で有罪となった。

柳伝志は、中国科学院・政策局にいた王平生に入社を懇願して、人事部長にすえた。

孫宏斌の逮捕で、社内は動揺していた。社員たちはこう思っていた。

「孫は入社して2年も経たないうちに刑務所送りになった。
あの青年は良い奴だったのか、悪い奴だったのか?
もし悪い奴ならどうして最初から重用されたのか。良い奴ならどうして捕まったのか。」

王平生は柳に助言した。「社員の不満のはけ口を作る必要があり、それには3段階ある」と。

王は「毛沢東の謀略から学んだ」と言って、次の3段階を説明した。

①社員で座談会を開催する

②社員のなすべきことをリーダーが説明する

③リーダーを中傷する者に反撃を加える

王は言った。
「毛沢東は、不平不満の声が出ている時は自分は何も言わず、そのはけ口を用意し、 声が静まったら不平不満を言った連中に徹底的に反撃しました。」

柳伝志は助言を受け入れ、座談会を開いて自らも出席した。

座談会では、経営陣の官僚体質、人事の不明瞭さ、などの意見が出た。

人間とは奇妙なもので、話す機会を十分に与えられると心が穏やかになってしまう。

座談会の後、柳は会社員の前で自己批判し、社員の質問に逐一答えた。
この時点から社内の雰囲気は和らいだ。

1991年の時点で、台湾のエイサー(宏碁電脳集団)の売上高は4.5億米ドルで、聯想は0.5億米ドルで9倍の差があった。

1991年は、パソコン業界にとって悲惨な年だった。

それまでパソコンのCPUはインテルが80%のシェアを占め、聯想などのメーカーはインテルからCPUを買うか、闇市場でそれよりも高額で買っていた。

インテルは各社に対して売る割当量を決めており、売りすぎて価格が落ちないように気を配っていた。

ところがAMD社がCPUを市場に放出し、それはインテル製よりも安くて機能が向上していた。

するとインテルは値下げをして、ここから両社の値下げ合戦が始まった。

CPUの価格は半年で半額まで落ち、消費者は様子見して買い控えた。

聯想が闇市場において195ドルで買っていたインテル製のCPUは、在庫に抱えている間に70%も価格が落ちてしまった。

このままだと赤字倒産なので、聯想は初めて人員のリストラを行い、香港の工場を閉鎖して、労働者100人を全員解雇した。
工員はほとんどが中卒までの女性だった。

その一方で聯想は、1991年の年末に中国の深圳で新工場をスタートさせ、中国政府は聯想のパソコン生産を国家計画に組み込むというニュースを発表した。

1991年に聯想は、ASTパソコンを2.6万台販売し、2億香港ドルを売り上げた。

1992年の春、中国政府は「直ちにパソコン輸入税を廃止し、2年以内にパソコン輸入の許可証制度もやめる」と発表した。

中国政府は規制緩和を前に、国内の一流パソコン・メーカーを保護することにし、長城計算機公司、長江公司、浪潮公司の3社に3億元の投資をすると発表した。

聯想は代理店ビジネスが主なので、対象から外れた。

この年、台湾や米国のパソコンメーカーが中国に進出し、パソコン価格が急落した。

前述のとおり政府のボーナス税は高いので、企業側は現物支給(食品などの支給)をすることでボーナス税を無効化しようとした。

これに対し政府は、「五三二」という政策をとり、企業が利益の50%を再生産に回し、30%は福利基金とし、ボーナスは20%を超えてはならないという政策をとった。

福利基金は、集団で使用されるのがルールで、社宅、食堂、託児所などの設置に使われる。

1992年12月に聯想は、マイクロソフトとウィンドウズ中国語版ソフトウェアの共同開発で合意署名した。
中国企業とマイクロソフトの提携第1号だった。

この頃になると、漢字カード・システムはもはや古いものとなり(使われなくなり)、聯想のマザーボードは販売数量は多いが利益率は低かった。

そこで柳伝志が目を付けたのが、家庭用コンピュータだ。

聯想は1992年5月に家庭用コンピュータ事業部を設置した。
初代部長は許志平である。

当時、パソコンを業務用から発展させて、家庭用にするという機運が起きていた。

この後、聯想は94年5月に家庭用の「Eシリーズ」を発表するに至る。

1993年になると、聯想のパソコンは品質がだいぶ良くなった。

AST社のパソコンより価格を10%安くしていたが、ASTはこの年に中国で8万台以上を売り上げ、聯想はとても追いつけなかった。

競争が激化してパソコン価格は落ちていき、パソコンメーカーは広告にカネをかけるようになった。
聯想も92年に、売上高の1.5%を広告費にあてた。

この頃になると、中国では広告産業、広告会社が急増していた。

メディア各社は笑いが止まらなかった。
当時のメディアの地位は今日よりも高く、役人のように大威張りしていた。
テレビ広告の料金はうなぎのぼりしていた。

聯想は人気テレビドラマの30秒のCMを、毎回120万元で買った。

中国では1991年に、上海と深圳に株式市場がつくられた。

香港聯想は94年2月に香港市場に上場したが、株の55%を国家のものとし、45%を社員のものとした。

創業者メンバーは多く株を配分されたので、一夜にして億万長者となった。

1993年の聯想のパソコン販売台数は2.6万台だった。

1994年に入ると、当時は人民元がドル安になっていたので、コンピュータ部品の輸入コストが上がった。

中国のコンピュータ市場は外国企業に牛耳られる状況で、押し寄せる外国製品は中国人の生活を変えた。

1994年3月、柳伝志は疲労からメニエル氏病が再発し、70日入院した。

この月に、服役していた孫宏斌が、模範囚なので刑期が減って出所してきた。
孫は柳に会い、「今後は不動産ビジネスを独立してやりたい」と話した。

孫は順馳公司を創業して、北京・天津地区で不動産業の花形企業に育て上げていく。

1994年3月に聯想は、新たにパソコン事業部を立ち上げて、楊元慶を部長にした。
揚はまだ20代だった。

当時、国産パソコンは壊滅状態にあった。
聯想も、自社製パソコンは売上の12%でしかなく、しかも赤字だった。

楊元慶は、パソコン事業の権限を一身に集中させて、部下300余人を一挙に3分の2も減らして、112人の精鋭に削減した。

楊元慶は家庭用パソコンを作るにあたり、一般の中国人が買える価格に設定して「Economic」と命名し、「Eシリーズ」とも呼ばれた。

国産パソコンの真の普及は、Eシリーズから始まった。

Eシリーズは、どれも部品を寄せ集めてケースに収めたもので、目標は安くすることだった。

これまでの業務用パソコンと違い、何百万もの家庭に売るのを想定して、コストを半減した。

当時のパソコンは1台3万元ほどだったが、 Eシリーズは1.6万元で売り出した。

Eシリーズは、国産をうたっていたが、中身はすべて輸入品で、ケースも台湾製だった。

この時期の中国人は、品質にはこだわらず、安ければよかった。

一方、聯想の倪光南・技師長は、コンピュータ用のチップ(CPU)を開発しようと準備を進めた。

しかし社長の柳伝志は、開発費がかかりすぎるとしてストップをかけた。

怒った倪は、「柳社長は重大な金銭問題があり、疑わしい金額は1000万元を超える」と告発した。

柳伝志は中国政府に交渉して、「国産パソコンをつくり続けるので支援してほしい」と頼んだ。

中国政府は国内にコンピュータ企業が何社もないことを憂えており、これを受け入れた。

聯想は、ヒューレット・パッカード社のパソコン販売モデルを密かに模倣した。

ヒューレットパッカードの販売は、営業部員は注文をとるだけで、その後の商品の受け渡しや、代金の受け取りは、すべて代理店が担当していた。

そこで楊元慶は、営業部員100名をリストラして、18人まで減らした。
そしてパソコンの直販体制を廃止し、代理店をつくる方針に転換した。

コンピュータの販売は、ハードもソフトも種類が豊富なので、消費者は自分に合う機種を教えてくれる業者(代理店)が必要だった。

直販から代理店に切り替えたのは、重要な路線変更だった。

当時、中国政府は1992年から市場経済体制の構築を方針にしており、中間業者が復活してきていた。

だが楊元慶が直前したのは、国産パソコンの代理店なんて誰もやりたがらない現実だった。

聯想は品質がいまいちで信用されてなかった。

3~5人の小さなコンピュータ店を片端から訪問して、なんとか代理店になってもらった。

1994年には聯想のマザーボードは世界シェア10%まで来た。

同年に、マイクロソフトと聯想が共同開発したMS-DOS中国語版が発表された。

(※『聯想 (Lenovo)の社史②』に続く)

(2024年12月14~16日に作成)


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