(以下は『聯想 (Lenovo) 中国最強企業集団の内幕、下巻』凌志軍著から抜粋)
(※この記事は、『聯想 (Lenovo)の社史①』の続きである)
1994年当時、中国に進出した外国のパソコンメーカーたちは、大都市しか見ておらず、小都市や貧困地域でもパソコンのニーズがあることに気付いてなかった。
聯想の営業部はこのことを認識し、大都市ではなく小都市で自らの代理店を増やしていった。
聯想の柳伝志・社長は、中国政府と親密になるよう努め、政府の重点支援企業の対象にしてもらった。
1995年に柳は、政府の重要な会議に何度も招かれた。
中国政府は、今後5年間でハイテク産業の発展のために、100億元を投資する計画だった。
1995年2月16日に、62歳になった曽茂朝は、中国科学院・計算技術研究所の所長を退職した。
聯想は、計算技術研究所とつながっているからこそ成長してきた。
だから柳伝志は、曽茂朝が聯想の会長になるよう説得し、中国科学院はこれを認めた。
同時に、柳は計算技術研究所の新所長に任命され、聯想の前副社長である李樹怡(リジュイ)を副所長にした。
ちなみに計算技術研究所は、会社を10以上つくったが、成功したのは聯想だけだった。聯想の利益は、中国科学院の収入源となった。
聯想の倪光南・技師長は、「柳伝志・社長が銀行からの借入金を流用した。また恵州聯想科学技術園の所有権が不明朗で、資金運用も不透明」と告発した。
それだけでなく、「柳が財務総監の胡靖宇を突然に更迭したのも裏がある」と告発した。
このため中国科学院の調査チームが柳を調べ始めた。
これに対し柳は、中国科学院に倪光南を解雇するよう求めた。
中国科学院の周光召は二者択一を迫られ、柳を選んだ。
倪は技師長を解任された。
柳は聯想の伝統だった技術開発を優先する方針を捨てて、貿易販売を優先する方針にかえた。
これは技術部門のトップにいた倪の解任が影響しているだろう。
1995年は、インターネットが中国でも普及し始めた年だ。
中国政府はインターネットを理解しておらず、規制をかけなかった。
大学生は学校のパソコンでインターネットに夢中になった。
この年、聯想はパソコン販売で中国市場シェアは6.6%の5位だった。
国内組ではトップのシェアだった。
なお1位はコンパックで27.3%、2位はASTの13.6%だった。
ASTは中国市場でシェアが下降しており、会社の株式を2.5億ドルで韓国のサムスンに売却し、中国市場から撤退を始めた。
中国では、8年前にはパソコン1台を売って2万元の利益があったが、競争激化で今では1台200元でも多いほどとなった。
他方で、1995年にノート型パソコンが中国市場に初登場したが、高価すぎて誰からも相手にされなかった。
この時期、パソコン用のチップは、米国のCYRIX、AMD、テキサス・インスツルメンツなどのチップメーカーが台頭してきた。
価格はインテル社よりも少し低めに設定していた。
そのためインテルも主要製品のペンティアム・チップを値下げすると発表した。
これを受けて聯想は、チップの仕入れ価格が下がったので、自社のペンティアム・シリーズの値下げを1996年3月に発表した。
他社もこれに続いて値下げした。
1995年の末に、GATTは正式にWTOへ改組し、中国に対外開放を促した。
中国の江沢民・国家主席は、「輸入関税を最低30%引き下げる。対象は少なくとも4000品目に及び、174品目の割当許可制度を廃止する。以上を1996年から実施する」と発表した。
1996年に香港聯想は苦境にあった。95年度会計で2億香港ドルの損失を出した。
株価は年初に2香港ドルだったが、1香港ドルまで落ちた。
これは、パソコン価格が下落する局面で、高値で大量にパソコンを買いためたのが原因だった。
聯想は香港から深圳に拠点を移した。深圳のほうが人件費も地代もオフィス賃貸料も安いからだ。
これだけで2000万香港ドルの経費削減となった。
1996年9月に聯想と台湾エイサーグループは、提携してコンピュータを開発し、「全人民コンピュータ」 という名で発表した。
最初の製品名は「双子星」だった。
これは技術的な目新しさはないが、価格破壊となる安さが売りだった。
1996年11月、香港聯想の累積損失は2.5億香港ドルに達し、銀行の融資だけで持ちこたえていた。
柳社長は、香港聯想の呂譚平・社長と呉礼益・副社長の解任を決めたが、問題は呂と呉が香港聯想の株を2億株も持っていることだった。
呂と呉は大株主なので、取締役会の議決権を有していた。
だが2人は分別があり、身を引いて役職から降りた。株は持ったままだった。
1997年2月に、次のことが決まった。
①北京聯想と香港聯想を合併して、中国聯想にする。
②具体的には、北京聯想が香港聯想の株を買い、これまでの持ち株比率42%から 60%以上に上げる。
中国聯想は、最高経営責任者兼社長は柳伝志で、李勤、曽茂朝、楊元慶、馬雪征、郭為が取締役となった。
1997年7月1日に、香港が中国に返還され、英国総督が香港から去った。
1997年7月に、「香港聯想の株式運用と投資行為に違反がある」との告発があり、 柳伝志・社長は3度目となる立ち入り調査を受けた。
聯想社員の倪光南が告発者で、朱鎔基(シュヨウキ)副首相と羅幹・国務委員が関心を示した。
調査の結果は、柳は無罪だった。
値下げ合戦をする中で、聯想は中国のパソコン市場シェアが17.7%まで上昇した。
IBMは11.8%まで下落し、1995年は首位だったコンパックは97年に6%まで凋落した。
1997年になると、アメリカのデル社がパソコンのネット販売で首位となった。
(※当時はまだパソコンのネット販売は黎明期である)
デル社は、マイケル・デルが1984年に19歳で始めたパソコン販売会社である。
1998年3月末日に、北京聯想と香港聯想の統合と再上場が行われた。
この結果、聯想は、一般株主が43%の株を持ち、57%を聯想集団が持つことになった。
聯想集団の株主の内訳は、65%が中国科学院である。
残りの35%を聯想の社員が持つ。
35%を占める社員持ち株の内訳は、社長ら幹部が35%、歴史的貢献者(古参の社員)が20%、一般社員が45%である。
1997年の聯想の中国市場でのパソコン売上は43万6千台で、市場シェアは10.7%だった。
聯想パソコンの海外売上はまだ低く、この年は347台だった。
しかも販売ではなく、中国政府の高官が外国訪問する時の贈答品だった。
1998年の春になると、タイに端を発した金融危機がすでに8ヵ月も続いており、中国もデフレとなり、失業者が増加した。中国の輸出はマイナス成長となった。
このような状況下で、柳伝志は台湾の工場を視察した。
すると、台湾メイカーたちがコンピュータの部品を作り、それを組み立てて、完成品がIBM、HP、コンパック、デルのパソコンとして売られていると分かった。
中国でIBMのパソコンとして売られるものは、実は台湾製だったのである。
パソコンを組み立て、それにアメリカ企業のラベルを貼ると、そのアメリカ企業の製品になるのだ。
「これだけ高い技術力があるのに、どうして自社製品としてパソコンを売らないのか」と訊かれたエイサーの施振栄・会長は、こう答えた。
「自社ブランドでアメリカ進出にしたのですが、数十億ドルかけても失敗に終わりました。」
この話をきいて柳は、自社ブランドで外国に進出するよりも、まず自社ブランドで中国国内で売る方針を決めた。
中国ならば、政府や国民が民族主義を持つので、中国生産の聯想パソコンが売れるからだ。
聯想は海外進出の計画を棚上げした。
1998年になると、中国におけるパソコン保有台数は1000万台を超えていた。
この年、柳伝志は米国タイム誌で「世界で影響力のあるビジネスリーダー25人」の 第14位にランクインした。柳はこの時54歳だった。
同年秋、聯想はIBMとソフトウェア分野で協力することで合意・調印した。
聯想は1998年11月に、正式にERP(エンタープライズ・リソース・プランニング)の導入を始めた。
これは柳伝志の妻・龔国興が進めたプロジェクトだ。
ERPは、企業の統合管理をするシステムである。
ドイツのSAP社が開発し、大企業が競って導入した。
聯想は、最先端の経営システムとしてERPを採用した。
目的は各部門の縦割り体制の打破で、副社長の朱立南が導入のリーダーに指名された。
ERPの核心は、各部門の統合で、全社員に同じ行動規範の遵守を要求する。
実はERPの導入は難しく、国際的に見ても成功率は20%未満であった。
聯想ではERPのため300人を超すスタッフが投じられ、王暁岩(女性)が朱立南の下で指揮した。
ビル・ゲイツは、「中国に進出してウィンドウズCEを使った中国語のパソコンを売る」と発表し、この計画を「ヴィーナス計画」と呼んだ。
1999年の後半に製品を発売すると発表した。
当時の中国では、OSはウィンドウズの海賊版が多く使われていた。
聯想の柳伝志・社長は、ビル・ゲイツと会談し、ヴィーナス計画に協力することを公表した。
聯想がインターネットに接続するための機器を開発・販売することになった。
マイクロソフト(ビル・ゲイツ)の進出に対して、中国では侵略と見る人も多かった。
そこで中国科学院の傘下にいる凱思ソフトウェア集団は、長城公司らのメーカーと連合して製品開発する計画を発表した。これは「女媧計画」と命名された。
女媧とヴィーナスの戦いが注目される中、1999年5月にNATO軍がユーゴスラビア を空爆し、中国大使館で3人の死者が出た。
このニュースが報じられると、アメリカ人に対する怒りが沸き起こり、「打倒・米帝国」のシュピレヒコールが北京で起きた。
マイクロソフトと提携する柳伝志は、売国奴と見られるのを恐れて、「私は愛国者です」とメディアで語り弁明した。
この年(1999年)、楊元慶は34歳だったが、聯想のパソコン部門のトップになって丸5年が経ち、その間に聯想のパソコンは中国市場でシェア1位になっていた。
だが楊は、インターネットに対しては反応が鈍かった。
当時、インターネットを知る中国人はごくわずかで、欧米人の好む珍物だと見ていた。
郵便や電話の代わりになるとは思えず、巨額のカネを投じて機器をそろえる理由を見出せなかった。
楊は1996年11月に訪米した際、初めてインターネットを視察したが、説明された「ウェブサイト」「ホームページ」「IPアドレス」などを理解できなかった。
それから3年間、楊にとってインターネットの興味は電子メールで友人とやり取りすることだけだった。当時はネット上のコンテンツは貧弱だった。
だが1999年春になると、ネット・ユーザーは世界で2億人、中国でも400万人となり、状況は変わった。
1999年5月に楊元慶は、聯想もネット産業に注力すると決めて動き出した。
一方、倪光南は柳社長への批判を止めなかったので、1999年9月に聯想から解雇された。
聯想はこれまでの功績について500万元を倪に渡そうとしたが、倪は受け取らなかった。名誉と潔癖さを守ったのである。
2000年の時点で、中国は「世界最大の工場」と呼ばれるまでに成長し、80品目の製品で生産量が世界一となった。
この年、アメリカのナスダック指数は急騰して、5000の大台を超えることになる。
2000年2月末日に聯想は、発行ずみの3500万株を売りに出しつつ、新株5000万株を1株33.75香港ドルで発行した。
調達したカネはインターネット戦略に使うと発表した。
振り返ると、1999年6月に1.3億株を売却した時は9.36億香港ドルしか調達できなかった。
だが今回は株高の影響で、8500万株で28億香港ドルを手にした。
2000年3月3日に柳伝志・社長は、李澤楷の会社と提携すると発表した。
35歳の李は、香港の富豪・ 李嘉誠の息子である。
このニュースを受けて、聯想の株価は28%も上昇し、45.2香港ドルをつけた。
3月4日も株価は上がり、一時は59.5香港ドルをつけた。
3月6日には、ついに69香港ドルをつけた。
聯想の株価が上がったので、社員はストックオプション制度に基づいて株を売り、住宅を購入できた。
2000年の時点で、聯想は中国パソコン販売シェアで30%を占めていた。
一方アメリカでは、3月9日にナスダック指数が5000を突破した。
聯想の株価が絶好調の中、柳は引退を口にするようになり、会社を2分割する方針を立てた。
当時の聯想は、郭為・副社長の率いる聯想科技は、売上の30%、利益の20%を占めていた。
一方、楊元慶・副社長の率いる聯想電脳は、売上の70%、利益の80%を占めていた。
楊元慶はパソコン販売に集中し、郭為は代理店業務に集中していた。
柳伝志は、楊を後継者にして、郭を補佐役にしようとしたが、楊と郭の仲が悪くて無理だった。
そこで会社を2つに分割しようとしたのである。
聯想の分割は2000年春にスタートし、楊元慶が製品業務を、郭為が代理店業務を率いることになった。
郭のほうは聯想のブランド名を使えず、聯想の上場株式は楊のほうに属した。
実のところ聯想は、自社ブランドに注力するようになっていて、代理店業務は減らしている状態だった。
郭為のほう(聯想科技)は、「神州数碼」(英語名はDigital China)という新たな会社名が決まり、香港市場に上場することになった。
業務は、代理店のほかに、eビジネスとシステム・インテグレーションである。
聯想を離れた郭為とその3000人の部下たちは、屈折した気持ちを抱いた。
2000年4月13日になると、ナスダック指数は3764まで下がっていた。
翌日14日にナスダック指数は355.5ポイントも下がり、「暗黒の金曜日」と呼ばれた。
聯想のパソコン販売台数は前年比3倍だったが、世界的な株安になったので、株価は(一時は69香港ドルまで行ったのに)一気に7.5香港ドルまで下落していった。
とはいえ聯想は2000年に、243万台のパソコンを売り上げた。
ビジネスウィーク誌は、聯想を世界IT企業の第8位とした。
2000年に、世界最大のインターネット企業であるAOLは、まだ十数年の歴史しかなかったが、1840億米ドルを投じてタイム・ワーナー社を買収した。
タイム・ワーナー社は、タイム誌、フォーチュン誌、CNN、ワーナーブラザーズを所有する会社だ。
インターネットの急成長を見て、聯想は「FM365」というポータルサイトを立ち上げた。
そして全国のメディアと契約を結び、ニュース・コンテンツを購入して配信し始めた。
聯想は、人気のあるウェブサイトを次々と買収していった。
さらに、AOLと合弁会社を立ち上げた。
ところが2000年が終わる頃になると、アメリカではITバブルが弾けて、インターネット企業が210社も倒産した。
アメリカのルーセント・テクノロジー社は、ベル研究所を擁して、研究員3万人、社員10万人の大企業だったが、株価が1年で99%も下落し、5万人を解雇した。
2001年に入ると、中国でもIT不況が始まった。
任正非が率いる華為集団は、ルーターとブロードバンド設備の専業メーカーで、1990年代に年商を1億元から220億元まで増加させていた。
任正非は2001年2月に、「インターネット業界は冬を迎える」との予測を発表した。
聯想の楊元慶は、パソコン販売の落ち込みを、値下げ、キャッシュバック、大型プレゼントなどで立て直そうとしたが、どれも効果はなかった。
聯想の2000年度のパソコン販売の好調さは、以後3年のニーズを先食いしたものであった。
ITバブルが弾けて恐慌状態の中、柳伝志・社長は権力を楊元慶と郭為に移譲したので、妻と世界旅行に出ていた。
ちなみに2001年は、7月に北京が2008年五輪の開催権を得て、9月に中国はWTOに加盟、同じ9月にアメリカで同時多発テロが起きた年でもある。
2001年6月1日に、神州数碼は香港市場に上場した。
聯想の構造を見ると、神州数碼と聯想電脳は、聯想控股の子会社である。
聯想控股は、聯想電脳の57%の株と、神州数碼の51%の株を保有している。
柳伝志が聯想控股の社長で、李勤が副社長であった。
聯想控股は、神州数碼と聯想電脳の子会社2つから、毎年最低2億元の配当金を受け取っていた。
柳伝志は、GEのジャック・ウェルチCEOを真似て、ベンチャーキャピタルへの投資を始めることにした。
聯想投資公司を設立し、朱立南を社長に任命して、資金として3000万米ドルを与えた。
朱は2001年末までに8社の株を買った。
柳はウェルチを真似て、新分野に参入することにし、不動産、物流に参入するため新会社をつくり、聯想の傘下に置いた。
聯想はIT事業部も立ち上げて、サーバー、デジカメ、携帯電話も売り始めた。
マイクロソフトの副社長が北京に来て、聯想と「デジタルファミリー計画」を議論した。
聯想は多角経営に舵を切った。
柳伝志と楊元慶は、「聯想が成長するには、国際化と多角経営しかない」と考えていた。
当時、多角化が21世紀の潮流と考える者は多く、アメリカの学者も「新しい競争は製品から発生するのではなく、その製品にどう付加価値をつけるかで発生する」と説いていた。
パッキング、アフターサービス、広告などで付加価値が付き、それが勝負を決めるという理論だ。
だがすでに先覚的な多国籍企業は、機敏な経営を追求して、提携や共同投資や外注を使い優位性を得ていた。
IT時代の経営の秘訣は、共存共栄にある。
ナイキはすでに、生産は完全に外注化した。
IBMは、グローバルネットワーク事業をAT&Tにアウトソーシングした。
マイクロソフトはOSを独占しているが、パソコンの組み立て事業はしない。
ところが聯想は、「ウチはパソコン販売で優位だから、インターネット市場を独占できるはずだ」と考えた。
そうして「FM365」というポータルサイトを立ち上げた。
「FM365」は、2500万米ドルを費やし、数百人の社員が20ヵ月も苦労を重ねた。
しかし2001年秋に敗色が濃厚となった。
AOLと設立した合弁企業も、死に向かっていた。
2001年11月1日に聯想は、FM365を諦めて、社員の大量解雇にふみ切った。
FM365にたずさわった社員たちはクビになり、ビルの中はガランとした。
評論家の多くは、FM365が始まった時は歓迎したが、敗退が決まると嘲笑に転じた。
当時、「アマゾン・コム」と称する書店がネット上に出来て、店舗はバーチャル空間だけのものだった。
2000年夏にインターネット・バブルが弾けると、アマゾン株も急落した。
アマゾンの社長兼COOのジョセフ・ガリは辞職願いを出した。
この時点で、世界中でアマゾンは「悪いビジネスモデルではないか」と議論された。
ITバブルが弾けて聯想が苦しむ中、分社した神州数碼は好調だった。
分社してから2年で、年商を65億元から100億元に増やした。
神州数碼の郭為・社長は、コンサルタント会社のマッキンゼーに新戦略を依頼した結果、eビジネス、ITサービスに注力することを決めた。
神州数碼はパソコンの代理店業務を主としていたが、携帯電話が急速に中国で人気が出てきたので、携帯電話の代理店業にも参入することにした。
郭為は、副社長の秦湘軍を携帯電話事業の責任者にした。
だが携帯電話が美味しい商売と気づいた者は多く、大勢が市場に参入したため、たちまち供給過多となった。
2003年の春、4億元を投じて神州数碼は20万台の携帯電話を海外発注した。
そして輸入した携帯に神州数碼のブランド名を刻んだ。
ところがこの20万台は雑音がひどく、充電しても半日で電池切れした。
社員の林楊が慌てて業界筋に聞くと、次の答えが返ってきた。
「有名メーカーの携帯電話は、企画から販売まで無数の段階を経ており、完成まで2年かかります」
このような努力を全く神州数碼はしてなかった。
さらに、新たにカラー画画の携帯電話が登場して、神州数碼の買った白黒画面のものは不良在庫と化した。
郭為・社長は失敗を認めて、「すみやかに在庫を処分せよ。いくらでもいいから売れ」と全社員にメールした。
親会社から柳伝志や李勤が神州数碼を訪れて、郭為のミスを叱責した。
柳ら取締役たちはその場で、副社長2人の解雇と、郭為の年棒を3分の2に減らすことを決めた。
郭為は心労から病発したが、何とかふみとどまった。
聯想は、2008年北京オリンピックの協賛スポンサーになるのを機に、社名の英語表記をそれまでの「Legend」から「Lenovo」に変えた。
2003年4月から、商品に「Lenovo」と書かれるようになった。
聯想と中国科学院・計算技術研究所は、演算速度が毎秒4兆回というスーパーコンピュータ「聯想深騰6800」を共同開発した。
この頃、中国にデル社が参入し、聯想のライバルとして出現した。
デル社は、聯想と同じような経歴の会社で、創立は1984年である。
創業者のマイケル・デルは、パソコンの直販モデルを開発した人だ。
デル社は、スピードと効率に強みがあった。
デル社は、中国では直販ではなく分売(代理店などを介した売り方)に力を入れた。
中国人は品物を見て現物を買うやり方が好きだからだ。
2004年3月11日に、聯想は全社員の5%となる600人を解雇した。
人件費をカットするためである。
社員の毛世傑の日記が、その惨状を明らかにしている。
この日記はネット上で広まった。
「面談室に呼ばれた者は、解雇を告げられ補償金の額を告げられ、文書に署名を求められる。1人あたり平均20分で終了する。
解雇される社員は、事前に一切知らされない。
面談の前に、会社は解雇の手続きをしている。
面談室に呼ばれる者は、同時に自分のメールボックス、メールアドレス、ICカードが全て削除され、解雇通告を受けてから7時間以内に会社から立ち去らなければならない。
私の部下も、解雇通告から2時間のうちに、働いていた形跡がすっかり無くなってしまった。
この3年、聯想は拡大路線を突っ走り、それから縮小路線へと転じた。
聯想はITサービスやソフトウェア設計に参入したが、死屍累々の結果に終わった。
これは誰が悪いのか? 経営者が悪いのだ!
経営者の失敗のツケを、我々一般社員が支払っている。」
上の日記は広まり話題となったので、柳伝志は演説で取り上げた。
柳の演説を要約すると、「解雇された社員には詫びるが、会社が身軽になるには他に良い方法がない」である。
この600人解雇の2週間後、聯想は大々的な記者会見を行い、「オリンピックのパートナー企業となり、2006年トリノ五輪と2008年北京五輪のスポンサーになった」と発表した。
オリンピックのパートナー制度は1984年からスタートし、2005~08年頃になると平均スポンサー費用は1企業あたり6500万米ドルまで上がっていた。
聯想がスポンサーに決まると、「Lenovo」と「五輪マーク」が中国のすべての大都市の街頭に並べて掲げられた。
オリンピックのスポンサーの慣例では、スポンサー費用の3倍の別途費用を出さねばならない。
聯想の出した6500万米ドルにこの別途費用を足すと、2.6億米ドルとなる。
この事が報じられると、投資家がパニックを起こしたので、柳伝志は記者会見した。
柳は、「聯想のオリンピックへの投資は巨額ですが、すべてが現金払いではなく、主要な部分は製品やサービスの提供という形を取ります」と説明した。
2003年末の時点で、聯想の年商の80%、利益の90%はパソコン販売が占めた。
聯想は多角化をやめて、パソコンに集中することを決めた。
2004年3月の時点で、聯想の輸出高は年商のわずか2%だった。
2004年6月22日、聯想グループのIBMのパソコン事業を買収する交渉が、最終段段に来ていた。
買収額は11~15億ドルの間で駆け引きされていた。
2004年の末に、聯想は6.5億米ドルと自社株6億米ドルで、IBMのパソコン事業を買収し、IBMの5億米ドルの債務も引き受けることになった。
両社が調印した文書の厚さは、1mに達した。
この買収で、聯想は世界シェア7.6%を占める、世界第3位のパソコンメーカーとなった。
1位のデル、2位のHPに迫る勢いである。
年商30億米ドルの聯想が、年商130億米ドルのIBMパソコン事業を買収したのは、「蛇が象を呑み込んだ」と言える。
この買収は、3年前にIBMの副社長ジョン・ジョイスが聯想に提案した。
聯想とIBMは合体し、社名は「新聯想」となって、IBMの副社長スティーブ・ウォードがCEOになり、聯想の楊元慶が会長となった。
(2024年12月16日、2025年1月13日に作成)