イングランド銀行は、巨大な脱税市場であるユーロダラー市場を創る

(『タックスヘイブンの闇』から抜粋)

1957年の時点でも、イギリスの通貨ポンドは、まだ世界貿易の40%で使われていた。

だが、イギリスの植民地が次々と独立していくと、ポンドの価値が落ちてきた。

イギリス政府は、銀行の海外融資を制限することで、資本の流出を食い止めようとした。

しかしイングランド銀行は、「金利を引き上げる」という別の案を考えた。

(高金利だと、外国からお金が入ってきます)

同行は、「金利を上げることで、イギリスの景気が悪くなっても構わない」と考えたのである。

(高金利だと製造業などの借り手は困ります)

ハロルド・マクミラン首相は、イングランド銀行を止めようとしたが、同行総裁のコボルド卿は「政府には、銀行に指示する権限はない。政府が何かしようとしたら、政府を破綻させてやる。」と脅した。

マクミラン首相は屈服した。

それでもマクミランは、一つの譲歩を勝ち取った。
ロンドンのマーチャント・バンクの生命線だった「ポンド建て国際融資」に、政府が制限を加えられるようにした。

しかし、マーチャント・バンクたちは、国際融資をポンドからドルに切り替える策に出た。

イングランド銀行は、それを規制せず、「この取引は、イギリス国内では発生していないと見なす」と決めた。

当時のイングランド銀行は、ジョージ・ボルトンの強い影響下にあった。

ボルトンは、為替トレーダーの出身で、1948年にイングランド銀行に迎えられた。

ボルトンは、こう言う。

「私は、外国為替取引について話し合うために、こっそり招き入れられたのだ。

当時は、外国為替取引は、極めてうさん臭い話題だった。

需要管理という規制を無くして、社会主義を消滅させれば、イギリスは帝国に戻れると考えた。」

ボルトンは、イングランド銀行の外国為替部門の責任者となり、『規制のないドル市場』をロンドンに作る事に情熱を注いだ。

そして、『ユーロダラー』とか『ユーロ市場』と呼ばれる、規制のない真空地帯が誕生した。

これにより、銀行は二重帳簿をつける事になった。

オンショア業務用の帳簿と、オフショア業務用の帳簿である。

ロナン・パランは、「ユーロダラー市場は基本的に、帳簿上の仕組みだ」と言う。

現代のオフショア・システムが始まったのは、この時である。

それに気付いた者は、ほとんど居なかった。

ユーロダラーは、通貨のユーロとは何の関係もないし、ドルだけを取引しているのでもない。

今日では、世界中の通貨が、このような形で取引されている。

ロンドンのこの新しい市場は、ただちに成長を始めた。

というのも、当時のソ連は、ニューヨークにドルを置くのを避けたがっていたからである。

冷戦が深刻化すれば、アメリカのソ連資本は差し押さえられる危険があった。

ロンドンでドルを保持できるこの新しい市場は、理想的な解決策だった。

そのため、ユーロダラーにソ連の資金がどんどん流入した。

マルクス主義を掲げる国が、最も規制のない資本主義市場を成長させたのである。
マルクスが知ったら、仰天しただろう。

ゲイリー・バーンはこう言う。

「ユーロダラー市場は、社会主義とケインズ主義に対する、新自由主義の反撃の狼煙だった」

現代のオフショア・システムの成長は、ロンドンから始まった。

P・J・ケインとA・G・ホプキンスは、こう言う。

「ポンドという船が沈んだ時に、ロンドンは新しい船(ユーロダラー)に乗り移った。

シティ・オブ・ロンドンは、『オフショア・アイランド』に変貌することで生き延びたのだ。」

ロンドンのオフショア市場は爆発的に成長し、1961年には預金残高は30億ドルに達した。

この頃になると、スイスなどが次々とこのゲームに参加し始めた。

そして、オフショア市場が拡大するにつれて、大量のマネーが世界中を駆け巡るようになった。

1963年にイングランド銀行の総裁だったクローマー卿は、「為替管理は、市民の権利の侵害であり、倫理的に間違っている」と主張した。

(2014.3.12.)


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