(『チョムスキー、世界を語る』から抜粋)
チョムスキー
アメリカでベトナム戦争について議論する場合、「アメリカは南ベトナムを防衛した」というのを前提に話が始まります。
しかしですね、ここで「ロシアがアフガニスタンを防衛したのは間違っていたか」と尋ねてみれば、誰もが前提の立て方がおかしいと気付くでしょう。
アメリカ人は、「ロシアはアフガニスタンを防衛したのではない、侵略したのだ」と言うはずです。
ベトナム戦争では、アメリカは侵略国でした。
しかし、「侵略した」という言い方で議論する事が許されないのです。
アメリカ軍は、ベトナムの村を空爆し、農作物の収穫をダメにするために枯葉剤をまき、ナパーム弾の使用を認め、ゲリラから守ると称して農民を強制収容施設に集めました。
アメリカは、ゲリラが農民たちに支持されているのを百も承知でした。
こうした情報がたくさんあるにも関わらず、アメリカは「南ベトナムを防衛した」と言い続けています。
信じがたい事ですが、これは事実です。
アメリカ人に「ベトナム戦争では、何人くらいのベトナム人が死んだか」と尋ねると、平均的な答えは10万人です。
実際には、200~300万人もの人が亡くなっています。
ドイツ人が、ホロコーストで殺されたユダヤ人について「30万人だった」と言ったら、「どんなプロパガンダが行われているか」とアメリカ人は不審に思うでしょう。
ところがアメリカ人は、ベトナム戦争については何の危機感もないのです。
(2014.5.28.)
(『すばらしきアメリカ帝国』から抜粋)
チョムスキー
2004年5月27日にニューヨーク・タイムズが掲載した、ニクソン政権の時のキッシンジャーとニクソンのやり取りには驚かされました。
ベトナム戦争中に、「大規模な攻撃をカンボジアに浴びせたい」と、ニクソン大統領はキッシンジャーに伝えました。
「何もかも叩いてほしい」と、彼は言いました。
(※カンボジアはベトナムの隣国で、北ベトナム側につく人々の方が勢いがあった。そのためアメリカは、空爆でカンボジアを粉砕しようとしたのです。)
そしてキッシンジャーは、「動くものを全て攻撃しろ」という空爆作戦をペンタゴンに命じたのです。
これほど明白なジェノサイドの指令は、歴史記録の中で目にした事はありません。
今、旧ユーゴスラビアのミロシェビッチ元大統領が裁判にかけられています。
もしミロシェビッチが「動くものを全て攻撃しろ」と言っていたのが判明したら、終身刑になるでしょう。
私は、ニクソンとキッシンジャーのやり取りについて、講演でたびたび取り上げています。
しかし、誰も理解しません。あまりにも許容しがたいためです。
「私たちの指導者が大っぴらにジェノサイドを指示するはずがない」と考えてしまい、それは起きなかったことになっているのです。
私は、「アメリカはベトナム戦争に負けなかった」と考えている、数少ない人間です。
1950年代からアメリカは、ベトナムと違って資源が豊富にあるタイやインドネシアで、ベトナムが成功例になることを(ベトナムの後を追うことを)心配していました。
アメリカがベトナム戦争を仕掛けることで、南ベトナムは壊滅し、ベトナムが他国のモデルになれる可能性は消滅しました。
アメリカは、目的を達成したのです。
1962年にケネディ大統領は、発ガン性の高いダイオキシンを、ベトナムで枯葉剤として空中から散布し始めました。
ダイオキシンは、ガンの発症と、脳や腕のない子供たちを生み出しました。
化学兵器だけで、50~100万人のベトナム人が亡くなったと推測されています。
ベトナムは、ダイオキシンの実験場になってしまいました。
南部だけで散布されたので、北部では被害は出ていません。
ニューヨーク・タイムズ紙は、「北部と南部を比較対照すれば、多くを学べるだろう」と報じています。
質問者
1967年にベトナムに派遣されて、次々と凶悪行為をくり広げた「タイガー・フォース部隊」に関して、ブレード紙が調査報道をしてピュリッツァー賞をとりました。
チョムスキー
確かに、彼らは凶悪犯罪を行いました。
だが、ハーバード大などの出身で、攻撃を計画した者はどうなのか?
犯罪レベルとして比べものになりません。
現地の兵士ではなく、ワシントンの戦略家こそが、真の戦犯です。
一連の指令は、ワシントンから発されたからです。
ニュルンベルク裁判や東京裁判では、そういう人たちが告発されました。
私たちが誠実さを示すならば、アメリカでも指導者が告発されるべきです。
質問者
なぜ、指導者たちにそれほど責任を強いるのですか?
チョムスキー
責任は、特権と相関関係にあるためです。
特権を享受していれば、責任もそれだけ重いのです。
指導者たちは、政策における決定権を手にしています。
従って、選択肢をもたない人々よりもはるかに重い責任を負っているのです。
(2014.7.9.)
(『ノーム・チョムスキー』リトル・モア刊行から抜粋)
チョムスキー
ベトナム戦争は、実は1950年にアメリカが関わる形で始まりました。
1954~60年まで、ベトナムには独裁政権があり、アメリカはそれを支援していました。
その独裁政権は、6~7万人の国民を殺しましたが、アメリカでは何の抗議運動もありませんでした。
ケネディが政権をとると、彼らは支援をエスカレートさせ、間もなく直接的にアメリカ軍を使ってゲリラを攻撃するようになりました。
それでも、何の抗議運動もありませんでした。
1965~66年になると、ベトナム戦争がアメリカ人にとって大きな関心事となりました。
しかし、反戦運動をすれば暴力的な方法でぶち壊されました。
反戦集会を攻撃した者は、リベラルなメディアに賞賛されました。
私たちは教会で反戦集会を開きましたが、襲撃されましたよ。
私の妻と娘2人は、反戦運動に参加した時に、人々から缶やトマトを投げつけられました。
アメリカで堂々とベトナム戦争に反対できるようになったのは、1966年からです。
アメリカ軍が直接的にベトナムに関わるようになってから、すでに5年も経っていました。
すでに何十万人ものアメリカ兵が、南ベトナムで暴れ回っていました。
南ベトナムでアメリカ軍は枯葉剤を使い、許容量の何百倍ものダイオキシンを何十万人ものベトナム人が浴びました。
この事実は、ほとんど新聞に載りませんでした。
(2015.7.16.)