(『ノーム・チョムスキー』リトル・モア刊行から抜粋)
チョムスキー
アメリカの対外援助は、イスラエル向けとエジプト向けに集中しています。
(※2002年の時点での話です)
さらに、軍事援助がかなりの規模を占めています。
ノースカロライナ大学のシュルツ教授は、ラテンアメリカにおけるアメリカの援助に関する研究で有名です。
彼の20年前の論文では、『アメリカの援助と人権侵害には、非常に強い相関性がある』と指摘しています。
彼は、「アメリカの対外援助は、ラテンアメリカでは市民に拷問を行っている国と人権侵害を行っている国に偏っている」と述べています。
私との共著もあるペンシルバニア大学のハーマン教授の研究では、『アメリカの対外援助は、相手国の投資環境の好転と最も強い相関性がある』と分かりました。
つまり、資源を吸い取るチャンスが増大するほど、その国への援助も増加しているのです。
これは、とても分かりやすい相関関係ですね。
では、相手国での投資環境を良くするには、どうすればいいのか。
最良の方法は、「労働組合や農民(民衆)のリーダーを殺害すること」「宗教的リーダーを拷問すること」「農民を虐殺すること」「社会保障プログラムの土台を崩すこと」などです。
つまり、基本的な人権を侵害することです。
シュルツ教授が発見したのは、この実情なのです。
シュルツ教授が論文を出した頃に、レーガン大統領が就任しました。
レーガン政権は、「テロとの戦い」を声高に主張し、中米と中近東に軍事援助をしました。
その結果、1980年代に中米と中近東で何が起こったでしょうか。
中米では、20万人が虐殺されて、考えうるすべての蛮行が行われました。
特にニカラグアは、アメリカの攻撃を受けて、何万人も亡くなり国が崩壊してしまったのです。
ニカラグアは、アメリカのテロ行為を、国際機関に訴えました。
国際司法裁判所は、「アメリカの行動は、違法な武力行使であり、国際条約に違反している」と糾弾し、テロ行為の中止と多額の賠償金を支払うように命じました。
これに対してアメリカは、攻撃を激化するという形で応じました。
ちなみに、これは超党派的な支持を得て行われました。
そしてこの時に初めて、「軟目標」つまり診療所や農協などへの攻撃も、政府として命じたのです。
これは、ニカラグアに親米派の大統領が生まれるまで続きました。
ニカラグアは、国連の安保理にも訴えました。
アメリカは、国際法の遵守を求める決議に対して、拒否権を行使しました。
アメリカは現在、テロとの戦いのリーダーとされていますが、国際司法裁判所からテロ活動を糾弾された国であり、国際法の遵守に拒否権を行使した国なのです。
他の中米諸国の場合は、ニカラグアよりもひどい状況でした。
ニカラグアでは国軍は国民を守りましたが、エルサルバドルとグアテマラでは国軍が国民を攻撃したからです。
1980年代に中米でアメリカの援助を最も受けていたエルサルバドルでは、残虐行為が行われました。
その内容を知りたい方は、悪名高い「SOA(現WHISC)」の資料をご覧になって下さい。
SOAのスローガンには、「アメリカ軍は、解放の神学を打ち破った」とありますが、これは実に正しい。
アメリカの中米における主な標的の1つが、カトリック教会でした。
カトリック教会は、貧しい人々を優先するという「重大な間違い」を犯したために、アメリカに罰せられたのです。
では、中東ではどうだったのでしょうか。
中東での「レーガン政権のテロとの戦い」の最悪の例は、1982年のイスラエルによるレバノン侵攻でしょう。
この侵攻では、2万人が犠牲になりました。
レバノン侵攻は、アメリカがゴーサインを出し、武器を供与し、外交的なサポート(イスラエルを止めるための様々な決議への拒否権行使)をして実現しました。
イスラエル軍は、占領地域からPLO(パレスチナ解放機構)を排除しました。
これこそが、侵攻の目的でした。
イスラエルは、PLOが執拗に話し合いによる解決を求めたのがうるさかったのでしょう。
そして、PLOの破壊と追い出しに大成功したのです。
(※当時、レバノンはPLOの拠点になっていた)
レバノン侵攻は、ヨルダン川西岸のための戦争でした。
パレスチナ側からの話し合いを排除するためのものでした。
1980年代の中東におけるテロのピークは、1985年でした。
その年に起きた最悪のテロは、3つ挙げられます。
1つ目は、ベイルートで車に爆弾が仕掛けられ、80名が亡くなりました。
あの事件の元をたどれば、CIAやイギリス諜報部にたどり着きます。
2つ目は、イスラエルによるチュニス爆撃です。
民間人75名が亡くなりました。
あの地域を担当するアメリカ第6艦隊は、イスラエルの爆撃機がチュニスに向かっているのを知りながら通報しませんでした。
この爆撃について、シュルツ国務長官はただちにイスラエル外相に電話で祝辞を述べました。
国連安保理がイスラエルを糾弾した時には、アメリカは棄権しました。
3つ目は、イスラエルがレバノン南部に行ったアイアンフィスト作戦です。
イスラエル軍は、テロリスト村と見なした村を攻撃して、虐殺をしました。
さらに、たくさんの人を誘拐して、イスラエルに連行して拷問した。
この3つの例は、中東で「テロとの戦い」がいかに行われたかの良い例です。
テロとの戦いは、南アフリカ地域でもありました。
南アフリカは、隣国のモザンビークとアンゴラで略奪行為をし、レーガン政権期の1980~88年だけで『死者は150万人で、600億ドルの損害』になりました。
当時の南アフリカは、アメリカの大事な同盟国とされていました。
アメリカでは、ネルソン・マンデラの率いるアフリカ民族会議は、「世界でもっとも悪名高いテロ集団の1つ」とされていました。
アメリカの対外援助と人権侵害に強い相関関係がある事は、これで分かったでしょう。
息子ブッシュ政権でテロとの戦いを主導している人達は、当時は何をしていたのでしょうか。
ラムズフェルド国務長官は、レーガン時代は中東特使を務めて、中東でのテロとの戦いの責任者でした。
ネグロポンテ国連大使は、当時はホンジュラス大使でした。
ホンジュラスは、中米のアメリカ軍の活動基地でした。
ここまで説明してきたアメリカの関わった国際テロ活動は、テロに分類されていません。
アメリカでは、「正義の戦争」として記述されます。
この考え方は、世界共通です。
様々な国を調べましたが、どこを調べても同じでした。
例えばナチス・ドイツは、占領した地域で行う軍事活動について、「パルチザンのテロから守っている」と主張しました。
どんなプロパガンダも、一抹の真実は入っているものです。
パルチザンはテロ活動をしましたし、それがロンドンから指揮されていたのも事実です。
だからナチスのプロパガンダも、わずかながら正当化できるわけです。
満州国で日本人がやった事も、同じです。
日本は、「満州民族を中国の無法者から守っている」と主張していました。
私は、当時の日本の文書と、ベトナム戦争時のアメリカの文書を比較しました。
すると、非常に似ていたのです。
正当化や考え方が同じでした。
どの国でも、自国の軍事行動は「報復行為」か「正義の戦争」と評し、他国がすればテロになります。
質問者
私は、ロメオ・デレール将軍のスピーチを聴くことができました。
彼は、ルワンダでの国連活動の責任者で、「ルワンダで大量虐殺が起こっているのに、世界の権力者たちが何もしない」と、非常に失望していました。
彼の目には、本質的には人種差別主義の問題と映ったようです。
チョムスキー
エド・ハーマンと私は、1979年に書いた本で、ブルンディとルワンダにおけるフツ族とツチ族の残虐行為について論じました。
当時にも何十万人もの人が殺されていました。
しかし誰も気にかけていませんでしたし、今でもそうです。
最近ではコンゴで何百万人も殺されていたのに、大した問題にならなかった。
さらに悪い事は、私たちが虐殺に参加していることです。
殺人者たちに銃を供給しているのですから。
質問者
私たちがしなければならないのは、軍事に関わる企業の株を売却することでしょう。
チョムスキー
株売却の活動は、しばしば成功してきました。
南アフリカの例を思い出して下さい。
1988年にアメリカは、マンデラのアフリカ民族会議を、公式にテロ組織に指定しました。
同じ年に、南アフリカはアメリカの特恵的な同盟国として迎え入れられました。
前年(1987年)の12月に、国連は「あらゆる形のテロリズムを非難する決議案」を可決しています。
その決議では、ホンジュラスだけが棄権し、アメリカとイスラエルの2国が反対票を投じました。
その決議は、実質的には南アフリカを対象にしており、アメリカとイスラエルは南アフリカの同盟国だったので反対したのです。
それから3~4年の間に、アメリカは態度を変えざるを得なくなりました。
民衆運動の圧力をうけたからです。
その中には、株売却の運動もありました。
(2015.7.13~15.)