(『アメリカの歴史を知るための62章』から抜粋)
冷戦の終結後は、多くの人は戦争が減ると予測していた。
しかし、クリントン政権は人道支援を名目にして、各地に軍事介入をしていった。
そうした外国への介入政策を、「アメリカの国益にならない」として批判して大統領に当選したのが、ブッシュ・ジュニアである。
ブッシュ・ジュニア政権は、「謙虚な外交」を唱えて発足したが、国際刑事裁判所への加盟を拒否し、京都議定書への加盟も拒否して、全く謙虚さのない外交をすぐに行い始めた。
そして9.11事件が起きると、ブッシュ政権は「これは戦争だ」と主張して、「テロとの戦いを行う大統領には、最高司令官として絶対的な権限が与えられる」と主張した。
そして、テロ対策を名目に、アメリカ国内で民主的な手続き・人権・公正さの無い行いをしていった。
アメリカ国民は、テロの恐怖の前に、それを許容した。
息子ブッシュの外交で最も特徴的だったのは、『イラク戦争』である。
イラクへの侵攻は、「フセイン政権は9.11を共謀し、大量破壊兵器を持っている」として正当化した。
しかし、いずれも事実ではない事が、明らかになっている。
イラク侵攻は、最終的には「中東全体の民主化のため」とされた。
しかし、イラク戦争後に生まれたのは、民主的な政治ではなく混沌であった。
息子ブッシュ政権は、「イラクで米軍とテロリストが戦っている限り、アメリカ本土はテロから安全である」という論理で、自らを正当化しようとした。
アメリカは、イラク侵攻に反対するヨーロッパ諸国を「古いヨーロッパ」と呼び、賛成する諸国を「新しいヨーロッパ」と呼び、両者を区分した。
そして、ロシアの影響下から脱しようとする東欧の国々を、自らの陣営に取り込んだ。
さらに、NATO軍のエリアをロシア国境にまで拡大し、ABM条約を一方的に破棄して、ミサイル防衛網を東欧にまで拡げた。
このため、包囲されたロシアは反発して、緊張が高まった。
息子ブッシュ政権は、イランと北朝鮮を「悪の枢軸」と呼び、交渉をしないで強硬姿勢を取った。
しかし、かえって北朝鮮のミサイル実験や核実験を招いてしまった。
そのため、六カ国協議を行うことにし、訪朝を可能にするためにテロ支援国家リストから北朝鮮を外した。
ブッシュ政権が残り1ヶ月を切った2008年末に、イスラエルはハマス全滅の作戦を始めた。
ブッシュ政権はイスラエルを支持して、停戦を求めなかった。
テロとの戦いの最奥には、アメリカとイスラエルの同盟関係がある。
冷戦期のアメリカは、「反共」という単純化した目標を掲げる事で、思考停止の状態だった。
息子ブッシュ政権は、すべてを「反テロ」という指標で理解しようとして、同じように思考停止に陥った。
この政権は、テロの暴力性・非人道性を非難したが、「アメリカも、同じように暴力的・非人道的な手段で、テロとの戦いを繰り広げている」との指摘に、耳を傾けなかった。
テロとの戦いは、各地で反米感情を煽り、アメリカの軍事力は薄く引き伸ばされて弱体化した。
(『一本の鎖』広瀬隆著から抜粋)
息子ブッシュ政権の中核となっていたネオコン達は、批判する者を「反ユダヤ主義」とか「テロリスト支援者」と決め付けて、自身を正当化し続けた。
ネオコンの中心人物だったウルフォウィッツやパールは、ユダヤ人である。
ネオコンを作ったのは、フランク・ギャフニーとリチャード・パールである。
2人は共に、レーガン政権の国防次官補を務めていた。
ネオコンは、息子ブッシュの下で小型核兵器を開発しようとした。
ヨーロッパの2003年10月の世論調査では、「世界で一番危険な国は?」との質問について1位はイスラエル、2位はアメリカだった。
78%の人が、「イラク攻撃は正当化できない」と答えた。
これを知ったイスラエルは、ただちに「ヨーロッパの反ユダヤ主義の復活」と批判した。
当時は、ブッシュ政権の最大の国家機密は「大統領は完全に無能である」だ、と噂された。
ジョージ・W・ブッシュは、タリバンをロック・グループと勘違いするほどのバカで、ネオコンに操られていた。
2003年11月にブッシュがロンドンを訪問した際には、10万人規模の反米デモが起きている。
イラク攻撃についてアメリカでは、白人は78%が賛成したが、黒人は29%しか賛成しなかった。
黒人歌手のハリー・ベラフォンテは、声高く反戦を主張した。
パウエル国務長官は、2001年10月にアルジャジーラに出演して、「パレスチナ人によるイスラエルへのテロの原因は、彼らの置かれた状況にある」と語った。
すると、ユダヤ・ロビイストは「テロをイスラエルが弾圧するのは正当だ」と言い、上院議員100人のうち89人に署名をさせて、ブッシュにイスラエルとの連帯を表明するように迫った。
以後、パウエルは口をつぐんだ。
その後、パウエル国務長官は、「イラクが大量破壊兵器を隠している」と国連で主張し、「炭疽菌も作れる」と言い張った。
息子ブッシュ政権は、CIAが「イラクに大量破壊兵器はない」と報告したのを無視して、イラクに侵攻した。
そして後になってからは、「兵器があると思ったのは、CIAの情報のせいだ」と言って、責任をなすりつけた。
当時は、日本の小泉首相は、(対米従属の姿勢のために)巷では「駐日アメリカ大使」と呼ばれていた。
○ イラク戦争での謎
① サダム・フセインは、なぜ9ヶ月間も逃亡をできたのか
② フセインの2人の息子ウダイとクサイは、見つかった際にあっさりと射殺された。サダムの居場所を知っているはずの2人を、なぜ捕まえなかったのか
③ なぜサダムは、自殺や抵抗をせずにあっさりと捕まったのか
④ イスラム教徒はモスクを絶対に攻撃しないのに、イラクではモスクでテロがある
2004年の米大統領選挙に出馬したハワード・ディーンは、イラク攻撃を最初から批判して、イスラエルのパレスチナ入植地は撤去すべきだと主張した。
彼はハマスを「兵士」と呼んで、テロリスト扱いしなかった。
彼は、「我々は後ろに下がるべきだ。身を引くべきだ。」と言った。
しかし、ディーンはユダヤ人の圧力にあい、あいまいな態度になってしまった。
アメリカのメディアはユダヤ人に支配されているので、ユダヤ人に批判されると意見を変えざるを得なくなる。