(『エコノミック・ヒットマン』ジョン・パーキンス著から抜粋)
1979年に、メイン社のマック・ホール会長は、なんの前触れもなくブルーノ・ザンボッティ社長を解任した。
「ブルーノの有能さに脅威を感じたからだ」と噂された。
私にとってブルーノは個人的な師で、彼がいなくなるのは大きなショックだった。
私はこれを1つのきっかけに改心し、1980年4月1日にメイン社から退職した。
だが、現実は厳しかった。
ある日、メイン社の新社長から電話があり、「君にクライアントの代理人として鑑定人席に立ってほしい」と懇願してきた。
私はそれまでの給料の3倍以上を提示したが、驚いたことに彼は同意したので、新しい仕事を始めることになった。
それから数年間、主としてアメリカの電気事業会社の代理人をした。
私の仕事には、議論の的になっていたシーブルック原発の経済的な実現可能性(経済的な利点)を宣誓証言することもあった。
仕事し始めると、鑑定人としてシーブルック原発の正当性を証明することに苦戦し始めた。
いつの間にか、「カネのために魂を売り渡しているのではないか」と悩まされるようになった。
シーブルックについての仕事には、ニューハンプシャー州内で発電するには原発が最も経済的だと、公共事業委員会に納得させる事が含まれていた。
残念ながら、研究すればするほど、自分の主張の正当性に疑いが生じた。
世の中もまた、原発の安全神話から離れ始めていた。
私は、カネをもらって裁判所に出向き、宣誓の下で原発を支持する事に、居心地の悪さを感じるようになった。
ある日、「これ以上、証言はできない」と上司に告げた。
そして、退職して『インディペンデント・パワー・システムズ(IPS)』を設立した。
この会社は、私がエコノミック・ヒットマン(EHM)としての過去について沈黙を守る約束の報酬として、多くの会社から後援を受けた。
議会の後ろ盾もあって、ある従量税を免税され、それにより競合他社よりも優位に立てた。
1986年に、IPSとべクテル社は同時に(ただし別々に)、『使用済みの石炭を、酸性雨を発生させずに燃焼させる発電所』の建設に着手した。
この革新的な発電所は、廃棄物とされてきた物質を電力に変換できること、石炭を酸性雨を発生させずに燃焼させられることを証明して、電力業界に革命を起こした。
IPSの活動は、1982年に結婚した妻がべクテル社員だった経歴と、妻の父がべクテル社の主任設計者だったことに、助けられた。
義父は、当時はサウジアラビアの都市建設の指揮をとっていたが、その工事は1970年代前半に私がEHMとして手がけた仕事の成果だった。
(サウジでの仕事については、『エコノミック・ヒットマン③』に書いてあります)
アメリカのエネルギー業界では、大規模な改革が進んでいた。
大手エンジニアリング会社が電力事業に参入し、市場を独占してきた電力会社に取って代わろうとしていた。
規制撤廃が進み、業界を知る人々は「エネルギーの西部開拓時代」と呼んだ。
私がかつて在籍したメイン社は、この状況に呑み込まれ、致命的な過ちをいくつも犯して財政苦境に陥った。
メイン社の大株主たちは、大手エンジニアリング会社にメイン社を売却した。
そして、世界中であれほどの重みがあったロゴは、忘れ去られていった。
当時に最も成長した企業の1つが、エンロンだ。
息子ブッシュが役員を務めるハーケン・エナジー社も、話題になっていた。
1989年には、石油大手のアモコ社がバーレーン政府と、石油採掘権の交渉をしていた。
ところが、父ブッシュが大統領に就任すると間もなく、マイケル・アミーン(国務省の顧問)がバーレーン政府とハーケン社の会合をお膳立てした。
そして、ハーケン社はアメリカ以外では石油採掘の実績はなかったのに、バーレーンでの独占採掘権を獲得した。
ブッシュ父子は、エンロンの重役と同じく、EHMたちが築き上げたネットワークの一部だ。
彼らは封建領主であり、プランテーションの主人だ。
『公益事業規制政策法(PURPA法)』は、1978年に議会を通過し、82年に法制化された。
この法律の下では、大手電力会社は、小規模会社の生んだ電力を公正な価格で買わなければならなかった。
この政策は、石油依存を減らしたいカーター大統領の願いの産物だった。
しかし、現実は異なるものとなった。
1980年代は、規制撤廃が進められ、小規模な会社は大手に呑み込まれていった。
しかもその多くは、破産に追いこんで買収する手段をとった。
レーガンと父ブッシュは、石油業界の一員だった。
世界銀行のような国際金融機関は、上下水道システム、通信システム、送電網などの、民営化を支持した。
その結果、EHMはより大きな集団へと拡大した。
国際金融機関とEHMは多くの国や地域を陥れ、「民間部門を活用すれば(民営化すれば)負債から脱出できる」と約束した。
そして多国籍企業は、学校や高速道路を建設し、インフラや医療サービスを提供した。
だが結局は、もっと儲けられる場所を見つけたら、彼らは去っていった。
彼らが放棄した地域では、往々にして破壊的な結果がもたらされた。
私は時折、激しい憂鬱に襲われた。
自分が果たした役割を思うと、罪の意識に打ちひしがれた。
あれこれ熟考した末、私はすべてを語る本『エコノミック・ヒットマン』を書く時が来たと心に決めた。
しかし、私はその作業を秘密裏には進めなかった。友人たちに意見を求めた。
1987年のある午後、かつて仕事仲間だった人物から連絡があり、ストーン&ウェブスター・エンジニアリング・コーポレーション(SWEC)とのコンサルティング契約を持ちかけられた。
当時のSWECは、世界トップクラスのエンジニアリング会社だった。
彼の話では、それほど働かずに高額な顧問料をもらえるという。
契約を決めた日、SWECのCEOと二人で昼食をした。
デザートを食べながら、彼は言った。
「本を書くつもりはあるのかね?」
ふいに、すべてが腑に落ちた。
私はすぐさま答えた。「いいえ、その気はありません。」
彼は言った。
「それを聞いて嬉しいよ。
我が社はプライバシーを尊重するからね、メイン社と同じように。
我々の事業の内容や、メイン社で君がしていた仕事、国際銀行や開発プロジェクトの取引について、口外しないことだ。」
私は、自分が雇われた本当の理由を理解した。
自分がカネで買われ、国や家族を裏切ったと思った。
(2015年7月5日に作成)