(『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)
『エリア51』ほど謎に包まれた軍事施設は、アメリカに他にない。
ネヴァダ州南部の高地砂漠(ラスヴェガスの北120km)に存在するこの施設は、グルーム湖と呼ばれる乾燥湖の湖底に、過去60年にわたって建設され続けてきた。
エリア51は、アメリカ最大の政府管理区域である『ネリス試験訓練場(NTTR)』の中にある。
NTTRは、12140平方kmの面積を持ち、コネチカット州とほぼ同じ大きさで、デラウェア州の2倍以上もある。
この途方もなく広い試験場の中には、(現在はアメリカ本土で唯一の核実験場である)『ネヴァダ核実験場』(3500平方kmの区画)があり、1951年1月27日に初めての核実験が行われた。
その日から1992年9月23日(アメリカ本土における最後の核実験が行われた日)までの間に、105発の原爆が地上で、828発が地下で炸裂した。
この核実験場には今も、国内のどこよりも大量のプルトニウムとウランが保管されている。
また、NTTRの隣りには、『ネリス空軍基地』もある。
NTTRは国防総省の管理下にあるが、ネヴァダ核実験場はエネルギー省(原子力委員会)が管理している。
NTTRで行われた初期の2つのプロジェクトは、CIAが機密解除した。
(※1998年にはUー2偵察機に関するプロジェクトが、2007年にはA-12偵察機に関するプロジェクトが、機密解除された)
だが公開された何千ページにも及ぶ覚書や報告書では、エリア51の名前は誤って見落としたと思われる2ヵ所を除いては、削除(黒塗り)されている。
NTTRで行われてきた極秘プロジェクトは、原爆の誕生まで遡る。
なぜなら、極秘プロジェクトのルールを策定したのは『マンハッタン計画』を主導した人々だからだ。
原爆の開発・製造は、アメリカ史上で最も高くついた工学プロジェクトだった。
1945年7月16日に、ニューメキシコ州の高地砂漠にある『ホワイトサンズ性能試験場』で、世界初の原爆が炸裂した。
この時までに、プロジェクトに投じたカネは、現在の金額で280億ドルに膨らんでいた。
原爆開発の秘密保持は徹底されていて、副大統領のトルーマンも知らされておらず、国会議員も誰一人知らなかった。
トルーマンは45年4月12日に(ルーズベルト大統領が病死したので)大統領に昇格したが、初めて原爆について知らされた時の驚きは途方もないものだったろう。
トルーマンは副大統領の時期には「上院の国防調査の特別委員会」の委員長を務めていたが、戦費の使途を管理する責任者だったのに、原爆開発を知らされていなかったのだ。
トルーマンは大統領になると、2人の人物から原爆開発プロジェクト『マンハッタン計画』を知らされた。
マンハッタン計画のトップであるヴァネヴァー・ブッシュと、陸軍長官のヘンリー・スティムソンの2人からだ。
『マンハッタン計画』には、20万人が携わり、80もの関連組織が存在していた。
製造工場は数十にも及び、その中には250平方kmの敷地をもつテネシー州郊外の施設もあった。
この施設は、一晩の消費電力がニューヨーク市全体を上回るほどの巨大施設だった。
にも関わらず、政府高官も議員も計画の存在を知らなかった。
第二次大戦が終結すると、原爆開発を全く知らされていなかった国会議員たちが、原爆の管理者を決めることになった。
その結果、1946年に『原子力法』が制定され、恐るべき秘密保持制度が出来上がった。
原子力法により、新たに『原子力委員会(AEC)』(以前はマンハッタン計画と呼ばれていた)が設置された。
そして、原子力委員会は大統領制とは完全に切り離され、独自に情報の機密区分を行うことになった。
アメリカ史上で初めて、民間人の運営する連邦機関の原子力委員会は、『大統領令とは異なる基準で機密情報の管理をすること』になった。
原子力委員会は、あらゆる情報を機密とし、65種類の異なる大きさと形状をもつ7万発の原爆を製造していった。
その原爆開発・製造では、エリア51とネヴァダ核実験場が中心地となった。
原子力委員会に特有の「部外秘データ」という機密区分には、民間企業の研究も含まれている。
言い換えれば、原子力委員会は研究を民間委託し、その研究をすべて機密にできる。
これはつまり、「知る必要がない」という理由があれば、大統領さえ撥ねつけられるという事だ。
1994年にクリントン大統領は、「放射線被曝実験の諮問委員会」を設置して、原子力委員会の秘密データを調査しようとした。
しかし「知る必要がない」という理由で、大統領にすら開示されなかった。
原子力委員会は、現在の名称は『エネルギー省』となっている。
(2019年1月28日に作成)