エリア51の歴史②
CIAがU-2開発の拠点にする

(『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)

朝鮮戦争は、ドイツの科学者が2つのチームに分かれて競い合った戦争でもあった。

空中戦では、アメリカはF-86セイバーを、ソ連はミグ15を使ったが、どちらもドイツ人が設計したものだった。

1953年に朝鮮戦争の休戦協定が結ばれると、リチャード・レグホーン大佐はこう主張した。

「ミグは高度1万3700mまでしか上昇できない。

だから1万8300mまで上昇できる偵察機を造ったら、ミグに攻撃されずに自由に偵察できる。」

レグホーンは、ドナルド・プット中将とカーティス・ルメイ将軍にアイディアを持っていったが、断られた。

そこで、大統領の科学諮問委員会のメンバーだったジェームズ・キリアンとエドウィン・ディン・ランドにアイディアを持っていった。

(キリアンはMITの総長。ディン・ランドはポラロイドカメラとインスタント・フィルムを発明した人物。)

2人は、こうアドヴァイスした。

「いっそのことCIAに働きかけたらどうだ?

CIAはスパイ集団だから、敵を上空からスパイするアイディアに興味を示すはずだ。」

キリアンは、CIAの高官であるリチャード・ビッセルと知り合いだった。

ビッセルはCIAに入る前は経済学者で、キリアンはMITにビッセルを招聘した事があったからだ。

こうして、高高度を飛ぶ偵察機「U-2」を開発するプログラム(暗号名はプロジェクト・アクアトーン)は、ビッセルが責任者となった。

1955年の冬、リチャード・ビッセルとCIAの同僚であるハーバート・ミラーは、飛行機でアメリカ西部のネヴァダに向かった。

彼らの任務は、CIAの秘密テストをする施設を建設する場所を見つけることだった。

ビッセルはアイゼンハワー大統領から直々に、「これまでにない新型の偵察機のテスト飛行を行える、秘密の場所を探せ」と命じられていた。

ビッセルを乗せた飛行機には、全米トップクラスの航空力学者で新型偵察機の設計をするロッキード社のクラレンス・ケリー・ジョンソンも同乗していた。

この小型機を操縦しているのは、伝説的な空のレーサーのトニー・レヴィエだった。

飛行機は、グルーム湖という乾燥湖に着陸した。

男たちは周囲を歩き、「ここが目的にぴったりの場所だ」と話し合った。

この湖底は天然の滑走路として申し分なく、北にはボールド山が高くそびえ、南西にもパプース山脈があり、隠れていた。

丘をひとつ越えた所には、原子力委員会の管理するネヴァダ核実験場があった。

ビッセルは回顧録の中で、こう記している。

「私はアイゼンハワー大統領に、原子力委員会のネヴァダ核実験場を拡大して、そこにグルーム湖を含めてはどうかと提案した」

そしてグルーム湖の一帯は、『エリア51』と名付けられた。

ビッセル一行が訪れた4ヵ月後に、最初の住人がやってきた。

ロッキード社のテストパイロット4人、同社の技師20人ばかり、CIA職員が数人、リットランド少将が率いる空軍の少人数の集団。

そこはほぼ砂漠で、とにかく暑く、エジプトかインドの駐屯基地みたいだった。

最も近い町はラスヴェガスだが、120kmも離れていた。

U-2プロジェクトの予算は1955年度で2200万ドル(2011年の貨幣価値では2.8億ドル)もあり、エリア51の設備は最新のものが用意された。

U-2のパーツは、ロッキード社の施設から空輸された。

テストパイロットに選ばれたレイ・ガウディは、若い頃は航空サーカス団にいた33歳だった。

U-2の外板はアルミニウムで紙のような薄さだったため、壊れやすく飛行中は細心の注意を要した。

墜落の可能性も高く、最初の頃はただ飛ぶだけだった。

55年9月になると、働くスタッフは総勢200人まで増えた。

ガウディは語る。「1万9080mまで上昇したのは俺が初めてだった」

これは世界記録だったが、1998年にU-2計画が機密解除されるまで世間に公表されることはなかった。

ガウディは、1万9500mという高高度でエンジンの故障を経験した世界初のパイロットでもある。

この時はU-2を1220m降下させ、降下の風力を利用して「ウィンドミリング」という方法でエンジンを再始動させた。

エンジンがすぐにまた止まったので、さらに9140mも降下してようやく再始動させた。
その後は止まることなく着陸できた。

リチャード・ビッセルはU-2プロジェクトを統括していたが、ワシントンとエリア51を行き来し、U-2を視察しては印のない飛行機(CIAの専用機)で帰っていった。

アイゼンハワー大統領がU-2をCIAに任せたのは、後に本人が書いているとおり、慣習にとらわれないやり方で行う必要があると考えたからだ。

全てを秘密裏に進めるためと、米軍人をパイロットにしなければ万一ばれても米軍の関与を否定できると考えたためだ。

ビッセルは大統領を説得し、U-2プロジェクトをCIAの中でも独立した活動にした。

機密領域にして議会や委員会に干渉されないためだ。

ビッセルはこの活動を、毎月5ページのレポートにまとめて大統領に提出した。

このU-2開発計画『プロジェクト・アクアトーン』は、最初はCIA、空軍、ロッキード社の合同事業になる予定だった。

ところがビッセルは空軍の関与をできるだけ減らそうとしたので、空軍のカーティス・ルメイ将軍が激怒した。

55年の初秋にビッセルとルメイは衝突し、アイゼンハワーが仲裁に入らざるをえなくなった。

CIAと空軍はお互いにU-2開発の主導権を持ちたがったが、大統領はCIAの持つ特性を重視した。

「CIAなら万一U-2が撃墜されても、気象関連の研究だったという作り話で誤魔化せる」とアイゼンハワーは考えたのだ。

そしてCIAが責任者に決まり、空軍はサポート役となった。

空軍の支援の1つは、エリア51への飛行便の運航だった。

ビッセルは「U-2の関係者がエリア51の近くに居住するのは、機密性から好ましくない」と考え、毎日カリフォルニア州バーバンクのロッキード社の施設からC-54輸送機で送り込むことにした。

55年11月17日に、そのC-54輸送機が墜落事故を起こし、搭乗者全員が死亡した。

ビッセルは「墜落したC-54の位置を突き止めて極秘書類を回収しろ」と命じた。

道路は軍によって封鎖され、CIAはいつも通りに事故を作り話でごまかした。

CIAには、世間を欺く偽情報の手法が2つある。
「遮蔽情報」と「偽情報」だ。

遮蔽情報とは、真実を真実でないと信じ込ませるための情報操作である。

偽情報とは、真実でない事を真実だと信じ込ませるための情報操作である。

C-54のチャールストン山での墜落事故の真実は、2002年にCIAが事実を認めるまで世間から隠され続けた。

この事故をきっかけに空軍は輸送係としての仕事を失い、その後の17年間はロッキード社が担った。

1972年頃からは、CIAがエリア51の管理を空軍に委ねたので、国防総省が輸送を担当することになる。

国防総省は輸送をEG&G社に任せた。
EG&Gは、すでに大統領専用機のセキュリティシステムを任されるまでになっていた。

U-2がエリア51からの飛行を開始するや、UFOの目撃情報が急増した。

のちに黒く塗装されるU-2は、当初は銀色で光を反射した。
それを見たカリフォルニア、ネヴァダ、ユタの市民は、UFOだと思い込んだのだ。

U-2の高度だけでも、人々を混乱させるのに充分だった。

民間機が3千~6千mで飛行していた1950年代半ばに、2万1千mの高さで飛んだのだから。

さらに機体は翼が長く、空飛ぶ十字架のように見えた。

エリア51で起きた事はすべて、極秘の区分に入り機密化される。

「何を極秘にするかの基準も、やはり機密扱いとなっている」と、NRO(国家偵察局)の名誉顧問のカーギル・ホールは言う。

NROも、1958年の創設からずっと機密扱いで、1992年にようやく存在が公表された。

だが2011年現在でも、どんな活動をしているかは機密のままだ。

CIAに雇われてエリア51で働いたパイロット達は、契約書に署名する時点では誰のために働くのか全く知らされなかった。

ハーヴィ・ストックマンは、こう振り返る。

「まるで小説みたいだった。

指定の日にオースティン・ホテルの215号室に来るように言われたんだ。
3時15分きっかりにドアをノックしろ、とね。

でドアを叩くと、上等な服をきたハンサムな男がドアを開けて言ったんだ。
『さあ入りたまえ、ハーヴィ』って。

それがCIAとの付き合いの始まりだった。」

ストックマンはアメリカでも指折りのパイロットで、第二次大戦と朝鮮戦争で任務を帯びた飛行を168回経験していた。

彼はCIAにスカウトされて、1956年1月にエリア51に配属された。

ストックマンは言う。

「エリア51は未開の地だった。皆がトレーラー暮らしでね。
1つのトレーラーに3人がいた。

訓練用の建物もトレーラーで、そこら一帯は砂漠だった。

道は厳重に監視されていて、警備員がいたる所にいたよ。

パイロット達は勤務時間外でもCIA職員に監視されていた。

A班のパイロットはカリフォルニア州ハリウッドに住まいを与えられていて、そこからバーバンク空港にいき、ロッキード社の飛行機でエリア51に飛んだ。

あの当時は、ロッキード社が計画に関与していることも、私たちは知らなかった。
グルーム湖という名前さえ私たちの語彙には無かった。

1度、上官に尋ねたことがある。
『もし撃墜されて捕まったらどうすればいいか』と。

こう言われたよ。『何でも洗いざらい喋ればいい』とね。

それくらいに我々パイロットは、飛行機の操縦法しか知らされなかった。」

(2019年2月3~4日に作成)


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