(『エリア51』アニー・ジェイコブセン著から抜粋)
1957年の夏、ロッキード社のケリー・ジョンソンは新型偵察機の設計に専念していたが、レーダー反射の達人を探していた。
9月になると、ロッキード社でエコー反射を研究していた38歳のエドワード・ロヴィックは、ジョンソンから「プロジェクトに加わらないか」と誘われた。
こうしてロヴィックは秘密グループへ加入し、公的には「先進開発企画」と呼ばれ、『スカンク・ワークス』と渾名されたプロジェクトに参加した。
CIAはU-2偵察機にステルス性を加えるためMITのボストン・グループに塗装を施させたが、すでに失敗(墜落事故)に終わっていた。
エドワード・ロヴィックは言う。
「ステルスあるいはアンチ・レーダーの技術は、敵がレーダーで探知して撃ち落とそうとするのを阻むものだ。
レーダーの働きはコウモリに似ている。
コウモリがキーキー鳴くと、その音が虫にぶつかって反射し、コウモリに戻って来る。
その音で虫までの時間と距離を測るわけだ。
これへの対処法は、レーダーの反射する方向を変えてしまう表面を作り出すことだ。
あとはレーダーを吸収する解決法もあった。だがこれはすごく難しいと分かった。」
CIAとロッキード社が開発する新型機は、高度2万7千mを時速3700km(マッハ3)で飛行するのを目指していた。
当時はマッハ2でさえとんでもない数字だった。
もしマッハ3で飛べれば、ソ連のレーダーの射程内に留まるのは20秒に満たなくなる。
その20秒が過ぎると、近くなりすぎてミサイルで迎撃できなくなるのだ。
ミサイルは高高度になると正確性が失われるので、2万7千mの高さをマッハ3で飛べばミサイルを命中させるのは不可能だった。
マッハ3を実現させるジェット・エンジンの設計は、「プラット・アンド・ホイットニー社」の担当だった。
ロヴィックはステルス技術のテスト用に、ロッキード社で初となる無響室を造った。
無響室とはエネルギー(音などの振動)を吸収する素材で覆われた閉鎖スペースのことで、そこで偵察機の模型にレーダー・ビームを当て、反射具合をテストした。
偵察機の形状やデザインは改良されていき、11回の大きな改変があって、「アークエンジェルー1」としてスタートした開発機は「アークエンジェルー12(A-12)」となった。
ケリー・ジョンソンとロヴィックはたまにワシントンDCへ行き、CIA高官のリチャード・ビッセルやアイゼンハワー大統領の科学顧問と会って進捗状況を報告した。
最終的に、レーダー反射の断面積を90%も減らせた。
この開発プロジェクトには、航空宇宙関連の「コンヴェア社」も参加していた。
1959年夏の終わりに、開発機のテストをするためスカンク・ワークスに従事する50人がエリア51に入る許可がおりた。
原寸大の模型をエリア51に運び、レーダーを当ててテストする事になったのだ。
エリア51では約1年前に「チタニア」という暗号名の原爆が爆発実験されていた。
放射線量がどれくらいだったのか、そこに入っても安全だったのかは、未だに明らかにされていない。
フルサイズのA-12の模型が空中に吊り下げられて、1km離れたレーダー・アンテナからレーダーが当てられた。
CIAは、ソ連の偵察衛星技術がどれほどか把握できておらず、A-12のレーダー反射テストはソ連の人口衛星が上空に居ない時に行っていた。
チームの面々は、ソ連の人工衛星の周期がわかる早見表を常に携帯していた。
59年12月に、A-12の説明がアイゼンハワー大統領になされた。
その場には、ポラロイド・カメラの発明者で億万長者のエドウィン・ディン・ランドもいた。
だがA-12には問題があった。ロヴィックは言う。
「ジェット・エンジンから出ている排気管にステルス性を持たせる事が出来なかった。
レーダー波はそこから入り込んで、はね返って出てくるんだ。
それを説明した時、リチャード・ビッセルは激怒したよ。
彼は解決策を見出さないかぎり契約は破棄すると脅してきた。
東側世界を偵察しようとして、撃墜されたり訓練中に事故死したりで、100名以上が亡くなっているのは私も知っていた。
私は、燃料にセシウム化合物を加えることで、排気ガスがイオン化されて、レーダーに感知されなくなるというアイディアを伝えた。」
このアイディアは試されて、正しい事が証明された。
その詳細は2011年現在でも機密扱いになっている。
こうしてロッキード社は契約破棄を免れて、A-12には『オックスカート(牛車)』という暗号名が付けられた。
A-12は製造段階へと移行し、テスト飛行がエリア51で行われる事になった。
U-2の5倍近い予算を割り当てられたこの新型機は、CIAと空軍が共同管理することになった。
取り急ぎ必要なのは、かつてない長さの滑走路と巨大な燃料貯蔵庫だった。
A-12の燃料タンクは積載が4万リットルを超えており、機体で最も大きなパーツだった。
燃料補給はときに空中で行われるが、その際は燃料の温度はー68度まで下がる。
ところがマッハ3で飛行中は140度まで上昇する。
だからJP-7という特殊な燃料が使われるのだ。
A-12のために2500mの滑走路が新設された。
さらにA-12のテストでは、追跡用のF-104、捜索救助用のヘリコプターなどもセットになっていた。
マッハ3で飛行すると、すぐUターンするにしても300kmという距離が必要になる。
そのためエリア51の周辺は飛行制限空域が一気に拡大された。
FAA(連邦航空局)に通達され、さらにFAAの職員は「高度1.2万m以上を飛ぶものについては質問するな」と指導された。
CIAはソ連の人工衛星を警戒していたが、ソ連の衛星はA-12の開発を探知していた。
ホワイトハウスがゲイリー・パワーズ事件(1960年5月にあったU-2の撃墜事件)で混乱している時、エリア51ではCIAと空軍がU-2の後継機となるA-12の製造を進めていた。
ロッキード社で、A-12は一機づつ手鍛造でつくられていた。
リチャード・ビッセルによれば、1300万の部品が使われたが、各部品はチタンで作られていた。
マッハ3の速度にもなると、飛行機の胴体の表面は500~600度の熱になり、エンジン近くは1000度近くになる。
純度の高いチタンでないと耐えられないのだ。
ロッキード社の技術者は、チタンが塩素とカドミウムに弱い事に気付いた。
カドミウムはロッキード社の工具全般の表面を覆っている物質だったため、別の工具に入れ替えられた。
ピッグス湾侵攻(キューバへの侵攻作戦)が失敗に終わると、ケネディ大統領はリチャード・ビッセルをクビにした。
そうなると誰がA-12計画の指揮を執るのかが問題となった。
ケネディはCIAと空軍が連携して取り組むのを望み、その結果1961年9月6日に宇宙探査と偵察機の計画は、CIA副長官と空軍次官が『NRO(国家偵察局)』という新組織の下で共同で進める事になった。
NROは、国防総省の内に設置され、表向きは国防総省の宇宙システム局の体面をとり、その存在は1992年まで秘密にされた。
ハリー・マーティンは、A-12の燃料担当の空軍軍曹として、エリア51に居た。
1962年4月。
A-12は完成して、エリア51で飛行テストが始まっていた。
ロッキード社のテスト・パイロットであるルイス・シャルクは、62年4月25日にA-12に乗った。
A-12はマッハ3で飛行できることになっていたが、まだ立証されてなかった。
機体は73トンのチタンでできていた。
バッド・ウィーロンは、CIAに入ってまだ2ヵ月の33歳だが、弾道ミサイルの科学者であり、信号情報のアナリストだった。
彼はMITを卒業しており、ケネディ大統領の科学顧問に選ばれて、リチャード・ビッセル(ケネディに解任されたCIAの高官)の後任としてA-12開発計画の責任者に任命された。
A-12に搭載されるジェット・エンジン「J-58」は、プラット・アンド・ホイットニー社が開発していたが、ようやく完成して63年1月にエリア51に届いた。
CIAのパイロットであるケネス・コリンズは、エリア51で働いていた。
ケネスは、表向きはヒューズ・エアクラフト・カンパニーに勤めている事になっており、彼に接近してくる隣人がいればCIAが身元調査をしていた。
ケネス・コリンズはエリア51で、A-12のパイロットになるための訓練を受けていた。
彼は朝鮮戦争に従軍しており、その時は仲間のパイロットが偵察飛行中に死ぬのを何度も見ていた。
1963年の時点で、A-12の開発計画はすでに1年遅れていた。
パイロットを身元調査して雇い入れるだけで18ヵ月、A-12の操縦に慣れさせるのに1年かかっていた。
1963年5月24日、ケネス・コリンズはA-12のエンジン・テストのために乗り込み、エリア51から出発したが、ユタ州ウェンドーヴァーの上空でトラブルが発生し、制御不能になった。
彼は緊急脱出用のリングを引き、座席ごと吹き飛ばされてA-12から離れた。
パラシュートが開いて地面に降下していったが、場所はソルト・レイクの塩原の北あたりだった。
着地してしばらくすると、遠くからトラックが近づいてきた。
ケネスは語る。
「トラックには男が3人乗っていて、地元の牧場主らしかった。
飛行機が墜落した場所を知っているから、そこまで連れていけると言われた。」
しかしケネスは、A-12計画の機密を守るよう命じられており、このような場合にどう対処すべきかも説明を受けていた。
だからこう答えた。
「自分が乗っていたのはF-105戦闘機で、核兵器が搭載されている。」
牧場主たちの表情は一変し、怯えた表情になった。
そして「自分たちはここから離れる。もし送ってほしいなら早く乗れ」と告げた。
ケネスは近くのハイウェイ・パトロール事務所まで送ってもらい、そこからCIAに連絡した。
A-12開発の科学技師のケリー・ジョンソンが、CIA専用機で来てケネスを回収した。
一方アメリカ空軍は、A-12墜落の知らせが届くなり捜索チームを送った。
エリア51の管制室にいたサム・ピッゾは言う。
「皆でトラックや飛行機に乗ってユタに向かった。
A-12の残骸を、ナットやボルト1つまで見つけて回収するためだ。
現地には水道もないので、食料や簡易ベッドも持っていった。」
A-12はチタン製だが、誰かが機体の一部を手に入れてしまえば、それがバレてしまう。
さらに機体全体を覆うレーダー吸収体も明らかになる。
サム・ピッゾは言う。
「100人あまりで墜落現場で2日間作業し、最後には1平方インチ刻みで地面を調べたよ。」
A-12の墜落原因は分からず、ケネス・コリンズは隠している事があると疑われた。
ケネスは言う。
「ケリー・ジョンソンから自白薬を勧められて、チオペンタールナトリウムを注射された。
でも私が話したのは全部、前と同じだった。
自白薬は身体への負担が大きくて、足元がふらついたので、CIAの職員が家まで送ってくれた。」
その後、長期にわたる調査を経て、ピトー管と呼ばれる小さな鉛筆サイズの部品が事故を引き起こしたと結論が出された。
このA-12墜落について、アメリカ政府はマスメディアに「F-105が墜落した」と、嘘の報告をした。
A-12のパイロット訓練には、サバイバル訓練もあった。
これはA-12が撃墜されて敵地に落ちたのを想定したものだ。
パイロットの1人だったケネス・コリンズは語る。
「人里離れた場所に連れていかれ、中国支配下の敵地にいると告げられた。
地面には電子警報器は爆薬が仕掛けられていた。
泥にまみれながら匍匐前進して30分くらい経った頃、仕掛け線に触れてしまって警報が鳴り出した。
軍服姿の中国人が10人現われ、私はジープまで引きずられて手錠をかけられ、本部に連行された。
そこで裸にされ身体を調べられたが、身体じゅうの穴を調べられた。
屈辱的で心をくじくものだった。
その後は裸のままコンクリートの独房に入れられ、拷問を受けた。
ほどなく幻覚を見るようになったが、数日後に釈放されて訓練は終わった。」
1963年1月、地球の裏側では、その訓練が現実になっていた。
葉常棣というCIAのパイロットが、U-2で中国の核施設を偵察中に撃墜され、拷問を受けていた。
葉常棣は、台湾軍の飛行隊「黒猫中隊」のパイロットで、この中隊はU-2を使ってCIAの代わりに偵察任務をしていた。
台湾の桃園基地と呼ばれる秘密基地を拠点に行われていた。
エリア51の司令官を務めたことのあるヒュー・スレーター大佐は、葉常棣のことをよく憶えている。
「彼は暗号名をテリー・リーといい、桃園基地ではよく一緒にテニスをしたものだ。
あの頃は、U-2はソ連製のSA-2ミサイルの迎撃に対して極めて脆弱になり、誰も操縦したがらなくなっていた。」
撃墜された日、葉常棣は中国上空で9時間にわたる偵察をし、帰途についたところで地対空ミサイルの誘導システムにロックオンされた。
捕まった常棣は、19年も捕虜として暮らし、1982年にひっそりと釈放された。
それ以降はテキサス州ヒューストンで暮らしている。
1965年には、張立義という黒猫中隊のパイロットが、同じくU-2で偵察中に撃墜された。
彼も捕まり、葉常棣と共に収監された。
数々の改良の後、1963年7月にA-12は短時間ながらマッハ3を達成した。
だがマッハ3で10分間の飛行をするようになるのは、さらに7ヵ月かかった。
63年11月22日にケネディ大統領が暗殺されると、大統領に昇格するリンドン・ジョンソンがどういう決定を下すか分からないため、A-12計画はいったん休止となった。
アメリカ空軍はA-12とは別に、「B-70」というマッハ3で飛ぶ爆撃機も開発中だった。
これは1959年の開発当初から、カーティス・ルメイ将軍が熱を注いでいた。
だが60年5月にゲイリー・パワーズの乗ったU-2が撃墜されると、U-2と同じ高度を飛ぶ予定のB-70は脆弱性を露呈した。
カーティス・ルメイはB-70計画を進めるために、広報活動に力を入れて、国民に必要性を訴えた。
だがケネディ大統領は「B-70は不必要」と評し、議会は発注数を85機から4機にまで減らした。
カーティスは、A-12を開発しているロッキード社のケリー・ジョンソンに会い、交換条件を出した。
「B-70に反対するロビー活動をしないと約束してくれるなら、空軍はA-12の発注書をロッキード社に送る」と。
すでに空軍は、A-12に「ブラックバード」という名前まで用意していた。
国防総省が25機のA-12の発注を上乗せするのに、数ヶ月とかからなかった。
1963年の時点で、国防総省はA-12について3機の改造ヴァージョンを注文していた。
1機はYF12Aで、250キロトンの核爆弾を2発搭載できるように改造したもの。
2機めは、機上に無人機を搭載できるもの。
3機めは、アメリカが核攻撃をした直後に、そこに行き標的を外していないか確かめる写真を撮るためのもの。
3機めは「RS-71ブラックバード」と名付けられるはずだったが、ジョンソン大統領が演説中に「SR」と逆にアルファベットを言ってしまい、「SR-71ブラックバード」が正式名となった。
ケネディ大統領の暗殺から7日後の1963年11月29日、新しい大統領となったリンドン・ジョンソンは、ジョン・マコーンCIA長官の同席のもと、A-12とエリア51に関するブリーフィングを受けた。
リンドンは、A-12の速度をいたく気に入った。
当時、飛行機の最高速度の記録は、時速2679kmを誇るソ連が保持していると世界中が思っていた。
A-12がその記録を何度も破っていると知ったリンドンは、「公表したい」と言い出した。
しかしA-12を公けにすれば、技術の優位が損なわれてしまう。
このブリーフィングにはマクナマラ国防長官、ラスク国務長官、マクジョージ・バンディ大統領特別補佐官も同席していたが、3人共に公表に賛成した。
3人が賛成したのは、「偵察機の開発にCIAを関わらせていたくない」という空軍の意図を汲んだためだ。
実際、空軍はケネディの死の数週間前に、A-12の存在を公表するよう提案したのだが、ケネディの答えは「時機を待て」だった。
結局、A-12を攻撃型に改造した、空軍のYF-12を最高速度の更新機として公表する事になった。
それも、YF-12の正体を隠すため、架空の名称A-11にして。
1964年2月29日に、リンドン・ジョンソン大統領は記者会見を開いて語った。
「飛行機の最高速度記録は、秘かにくり返し破られている。A-11によって。」
その様子は、ロシア人の鼻を明かしてやれるのが嬉しくてたまらない風だった。
この後、マクナマラ国防長官は「人工衛星と無人機の高度化によって、CIAのA-12はいずれ必要なくなるだろう」と、マコーンCIA長官に告げた。
この頃になると、人工衛星は申し分ない偵察画像を撮れるレベルに到達していた。
だが人工衛星は、固定されたスケジュールでしか動けない。
世界1周に平均90分を要し、どこをいつ通過するか容易に割り出せた。
一方、A-12なら飛行ルートを柔軟に変えられる。
さらにA-12は、2.7万mの上空から76cm四方の地上の様子をフィルムに鮮明にとらえる事ができた。
マコーン(CIA)とマクナマラ(空軍)が対立する中、64年夏にソ連のフルシチョフは「アメリカのU-2偵察機がキューバ上空を飛行したら、必ず撃墜する」と宣言した。
マコーンCIA長官は、A-12を投入する好機と見て、任務を与えるよう大統領に求めた。
これを受けてジョンソン大統領は、『スカイラーク作戦』を許可した。
キューバ上空を偵察飛行する作戦である。
だがA-12は、まだ問題を抱えていた。
A-12には特別設計のJ-58ターボジェット・エンジンが2基、搭載されている。
このエンジンは、1基あたりで遠洋定期船クイーン・メリー号の4基のタービンの合計出力と同等だ。
時速3000kmで飛行するために、J-58エンジンは毎秒280立方mの空気を吸い込んでいる。
あるエンジニアは、これを200万人が同時に空気を吸い込む状況に喩えている。
A-12はある速度で飛行中、どういうわけか空気の流入が遮断され、片方のエンジンが停止してしまう事がある。
そうなると機体はひどく偏揺れし、パイロットはコックピット内のあちこちに身体を叩きつけられながらエンジンを再始動しなければならない。
A-12を開発したロッキード社の、主任テストパイロットであるビル・パークは、この問題を同社の熱力学者ベン・リッチに解決させるよう、ケリー・ジョンソンから指示をうけた。
ベン・リッチのチームは、問題を迂回する仕組みをつくった。
片方のエンジンが止まった時、もう片方のエンジンの出力を落とし、それに続いて両方のエンジンを同時に再始動させるという電子制御システムを開発したのだ。
A-12には、ECM(電子妨害手段)の問題もあった。
キューバに配備されたソ連のレーダー・システムは、A-12を捕捉する可能性が高く、撃墜も可能と見られていた。
だからステルス性を高めるため、ロッキード社のエドワード・ロヴィックのチームが、再びエリア51に招集された。
エドワード・ロヴィックが始めたのは、『プロジェクト・ケンプスター・ラクロワ』として知られるようになるプロジェクトで、高い電荷を帯びた粒子の雲を電子銃で発生させ、その中をA-12が通るものだった。
ガス状の雲が、レーダー波を吸収する。
ところが、その雲から放出される放射線が、パイロットにとって危険すぎると分かった。
結局、A-12の低可視性は充分という話になり、プロジェクトは中止された。
この後、CIAはエリア51にECM担当の部署を設けることを決め、シルヴェニア社からスタッフが派遣された。
シルヴェニア社は、CIAの極秘プロジェクトに参加していたが、電球の製造で知られていた。
ECM担当の職員だったケン・スワンソンは言う。
「最初の電波妨害システムはレッド・ドッグと呼ばれ、後にブルー・ドッグになった」
レッド・ドッグ・システムは、追尾してくるミサイルを感知し、電子パルスを用いて妨害する仕組みになっていた。
A-12のこうしたテストは、国防総省の特殊活動部の部長であるレッドフォード准将が監督していた。
ベトナム戦争が本格化すると、マクナマラ国防長官はA-12に対する方針を180度転換した。
北ベトナムの偵察に使えると考えたのだ。
1960年代の中頃になると、エリア51の周辺では、テスト飛行を繰り返すA-12がUFOと間違えられ、UFO目撃件数が激増した。
1962年4月30日からA-12はテスト飛行を始めたが、その5日後からUFO目撃報告が増えた。
62年4月30日は、同じ空域でNASAの「X-15ロケット機」のテストも行われていた。
X-15ロケット機は、宇宙のきわまで行ける最初の有人機で、最高高度は10万8千mだった。
X-15は機密プログラムではなかったため、NASAは飛行中に撮った写真をよく公表していたが、その日の写真にはA-12が写っており、気付かずに公表してしまった。
するとマスコミはUFOだと断じた。
A-12がUFOと人々に思われてしまうのは、1950年代のU-2の時と同じだった。
A-12はマッハ3の速度を出せたが、当時では前代未聞の速さだった。
さらに日没直後だと、上空では太陽がまだA-12を照らしており、地上から見るとUFOに見える。
当時のエリア51の司令官だったヒュー・スレーター大佐は、こう証言する。
「民間機のパイロットがA-12を目撃してFAA(連邦航空局)に報告すると、着陸した空港にFBI局員が待ち構えて、乗客全員に情報漏洩防止の書類に署名させていた。」
エリア51の基地司令官は空軍将校に与えられたが、給与の出所はCIAだった。
1965年に、このポストにヒュー・スレーターが就いた。
ヒューは第二次大戦中はパイロットとしてドイツ軍と戦い、戦後は台湾でU-2偵察機の飛行隊「黒猫中隊」の指揮官を務めていた。
ヒューは、レッドフォード准将と共にしょっちゅうワシントンを訪れ、極秘計画を審査する「303委員会」でA-12の報告をした。
1966年5月10日に、CBSキャスターのウォルター・クロンカイトはUFOの特別番組の司会をし、「CIAはUFOの隠蔽工作に関与している」と告げた。
CIAは世界各地のUFO情報を集めていたが、興味がないと嘘をつき続けていた。
この番組では、1953年のロバートソン委員会の報告も取り上げた。
ロバートソン博士が出演し、彼の名前が冠されているUFO委員会は「CIAの後援で1952年に発足した」と暴露した。
CIAと米軍は、国民に嘘をつき続けてきた。
ジェット機の幕開けに、アメリカ陸軍航空隊が行ったのも、その一例だ。
1942年、ジェット・エンジンが開発されて間もない頃、陸軍航空隊は機密にしておきたいと考えた。
ジェット・エンジンが登場するまで、飛行機はプロペラで飛んでいた。
陸軍航空隊は、ジェット機(ベルXP-59A)のテスト飛行をする際、機首にダミーのプロペラを付けて誤魔化した。
CIA次官のリチャード・ヘルムズは、エリア51の新しいボスとなった。
彼は、A-12開発計画の責任者であるバッド・ウィーロンと緊密な連携をとって、A-12の計画を進めた。
バッド・ウィーロンは、4年契約でCIAに入局し、その期間を満了するとCIAを去っている。
リチャード・ヘルムズは、若い頃はUP通信社の記者だった。
1936年に23歳だった彼は、ベルリン五輪を取材中、ヒトラーのインタビューに招かれスクープをものにした。
それから6年後、OSS(CIAの前身)に雇われて、ヒトラーの配下たちを秘かに探ることになった。
第二次大戦が終わるとリチャードは、ナチスの科学者たちを見つけてアメリカに連行する、『ペーパークリップ作戦』で重要な役割を果たした。
リチャード・ヘルムズは、1975年にCIAの行っていた『MKウルトラ』という人体実験について話すため、元CIA長官として連邦議会の証言台に立っている。
この時には、「1973年にすべてのMKウルトラ資料を破棄するよう命じた」と証言した。
1965年12月に、ついにA-12の作戦運用が可能となり、エリア51で祝典が行われた。
CIA最高幹部のワーナー・ワイスが、パーティの食材を手配した。
リチャード・ヘルムズは、1966年6月にCIA長官に就いたが、A-12のロビー活動をくり広げた。
8月に入ると、ジョンソン大統領の立ち会いのもと、A-12配備の是非を問う投票が行われた。
反対が過半数を占め、大統領もこれを支持した。
1967年1月5日、ウォルト・レイはA-12のテスト飛行をしたが、エンジンが止まり脱出に失敗して墜落死してしまった。
ただちにヒュー・スレーターは、ウォルトの遺体と機体の残骸を見つけるよう命じた。
エリア51とネリス空軍基地から、捜索の飛行機が派遣された。
国防総省は、偵察機の開発を独占したいため、この事故死を強調し、ジョンソン大統領に「A-12計画を廃止するよう」進言した。
翌日にヒューはワシントンに呼び出され、303委員会でこう告げられた。
「68年1月1日をもってA-12計画は打ち切りにする」
3ヵ月後、ヒュー・スレーターはA-12とのお別れ飛行に出掛けた。
A-12に乗り込み、エリア51から出発してマッハ3で飛行し、23分後には1100km離れたモンタナ州ビリングスまで来ていた。
この速度になると、景色を愉しむことなど出来ない。
機器の1つ1つに絶えず注意しなければならないからだ。
ヒューはカナダとの国境まで行って旋回し、カリフォルニア州に向かった。
そこで高度を落とし、KC-135給油機とおち合う事になった。
カリフォルニア州ユバ郡にあるビール空軍基地から給油機が来たが、空中給油はA-12にとって危険な作業の1つである。
時速560~720kmにスピードを落とす必要があるが、減速すれば安定性を保つのが難しくなる。
KC-135の方も、最高速度で付いていかなければならない。
その空中給油中に、ポール・バカリス大佐から無線連絡が入った。
ポールは、CIAの特殊活動部の部長を、レッドフォード准将から引き継いでいた。
ポールは告げた。
「国防総省から緊急連絡が入ったので、ただちにエリア51に帰還するように」
「給油中だ」
「海へ出て、燃料を捨てて、帰還するんだ」
ヒュー・スレーターは4万ポンド(18200kg)の燃料を放出して捨て、それが大気圏の中で気化するのを見た。
燃料が多すぎれば、着陸時にブレーキが損傷しかねない。
エリア51に戻ると、ポール・バカリスが満面の笑みで待っていた。
そして言った。
「ジョンソン大統領がA-12にゴーサインを出した」
リンドン・ジョンソン大統領は、毎週火曜日に昼食会を開き、側近たちと外交政策を話し合った。
この昼食会は「ターゲット・チューズデー」と呼ばれたが、北ヴェトナムのどこを爆撃するか盛んに議論されたからである。
1967年に入ると、北ヴェトナムの地対空ミサイルによって、米軍機が頻繁に撃墜されるようになった。
国防総省は1年にわたって偵察飛行したが、地対空ミサイルの基地を特定できなかった。
この状況下で、開発の打ち切りが決まっていたA-12に任務が回ってきたのだ。
1967年5月16日のターゲット・チューズデーで、CIA長官のリチャード・ヘルムズは提案した。
「A-12なら北ヴェトナムのミサイル基地を高解像度で撮影できる」
マクナマラ国防長官は「A-12の空軍版であるSR-71がまもなく実用可能になる」と語ったが、ジョンソン大統領はCIAのA-12を沖縄の嘉手納空軍基地に配備する事を承認した。
CIAは、その『ブラック・シールド作戦』を行うため、A-12やパイロット、支援要員260名を嘉手納に送った。
嘉手納空軍基地は、沖縄本島にあるが、沖縄は日本の降伏後に米軍下に入り、67年当時も米軍の支配下にあった。
この基地は島の10%を超える面積を占有しており、基地からの収入は全島民の所得の40%近くを占めた。
ブラックシールド作戦はここでスタートしたが、もちろん沖縄の人々には知らされなかった。
A-12が最初の任務を行ったのは、ジョンソン大統領の承認からわずか15日後だった。
CIAのパイロットのメル・ヴォヴォディッチの乗ったA-12は、北ヴェトナム上空を飛び写真を撮ったが、中国にも北ヴェトナムにも察知されなかった。
撮ったフィルムは、ニューヨーク州ロチェスターにあるイーストマン・コダック社の内に設けられた専用処理センターに送られた。
しかしこれだと、偵察写真の情報がヴェトナムの米軍司令官の手元に届くまで数日かかってしまった。
そこでCIAは、日本に写真センターを設置した。
その結果、24時間後には司令官の手元に届くようになった。
それでもなお、北ヴェトナム側はミサイル基地を移動させて爆撃を逃れ続けた。
嘉手納基地で働いていたロジャー・アンダーセン中佐は振り返る。
「嘉手納の滑走路の近くに停泊していたソ連のトロール船のせいだ。我々が離陸するたびにメモを取っていたんだろう。」
ソ連が北ヴェトナム側に、米軍機の出撃の情報を伝えていたのだ。
その結果、ブラックシールド作戦の16回目の任務中、A-12は初めてミサイルに狙われた。
パイロットにとって運が良かったのは、ミサイルはA-12の高度に到達できなかった事だ。
ただし、A-12はステルス性が高いのが売りだったのに、敵に位置がしっかり把握されていた。
(※つまるところ、巨額の金を投じて開発したが、無駄だったという事です)
ハーヴィ・ストックマンは、U-2で初めてソ連を偵察したパイロットだが、ヴェトナム戦争にも従軍していた。
1967年6月11日、ハーヴィはF-4Cファントム・ジェット戦闘機に搭乗中、味方の飛行機とぶつかり、同乗していたロナルド・ウェッブと共にパラシュートで脱出した。
着地したところを北ヴェトナムの兵士に捕らえられ、そのあと5年と268日を2m四方の独房で過ごすことになった。
捕虜となったパイロットは、カメラの前に引きずり出されて、アメリカを糾弾するよう強いられる事もあった。
これは極めて効果的で、全米各地で反戦の気運が高まった。
それに対しホワイトハウスは、「我々はこの戦いに勝利しつつある」との虚偽の情報で反撃した。
(2019年3月1日に作成、
10月19日に加筆、2020年7月31日にも加筆)