(『アメリカ黒人の歴史』上杉忍著から抜粋)
1964年の公民権法の制定以後に、多くの黒人が中産階級に上昇した。
1990年代の経済ブーム期には、黒人の企業家も大量に現れた。
アメリカ黒人の収入は、全体としては向上している。
黒人の中産階級の収入は、1992年の2.3万ドルから、2005年には3.1万ドルになった。
黒人の大学在籍者数も、1960年の13.6万人から、2000年には155万人に増えている。
ただし黒人の中産階級は、まだ脆弱である。
1950年に黒人の持ち家率は35%だったが、2005年には47%になった。
しかし、黒人の資産は白人の10分の1で、失業したりすれば再び社会の底辺に落ちてしまう。
1965年の投票権法の成立以後、黒人が代議士になる事が増えた。
南部ではそれ以前はほぼゼロだったものが、1985年に3801人にまで増えた。
全国で見ると、1965年には270人だったが、1997年には8617人となった。
こうした代議士たちは、当然ながら白人有権者も引きつける政策を公約にしなければならない。
(白人の方が人口が多いためである)
多数の白人が郊外に移住し、カーター政権以降は連邦政府が財政緊縮を理由に補助金を大幅に削減したため、大都市の財政は苦しくなった。
大都市の政治家たちは、外部から企業を誘致することで解決しようとした。
そして法人税が下げられ、高速道路やショッピングモールの建設が進められて、貧しい住民は立ち退きをさせられた。
都市の貧困対策は、行政ではなく、教会などの住民組織に任されるようになった。
1990年代からは、黒人社会の内部で、格差(分極化)が顕著になっている。
1970年代の半ばから、国際競争力を失った産業は、都市から郊外に、郊外から国外へと脱出し、「産業の空洞化」が進んだ。
さらに、軍事部門で発達した電子技術が民間に用いられて、産業がハイテク化した。
その結果、都市部の労働者は必要とされなくなり、失業が蔓延するようになった。
こうして労働者は、高賃金者と低賃金者に二分され、それが固定化した。
低賃金の労働市場には、昇進や昇給のチャンスはない。
海外から移民が流入してくるため、21世紀に入ると白人の中産階級からも、貧困層への転落が顕著となっている。
こうした社会の激変により、アメリカの平均週給は、1970年の313ドルを頂点として、2008年には279ドルにまで下がっている。
失業率は、高止まりしている。
2010年の失業率は、白人は7.5%、黒人は16%であった。
若年層(16~24歳)の失業率はとても高く、白人男性は24%、黒人男性は56%、白人女性は16.7%、黒人女性は42.6%である。
注意しなければならないのは、刑務所に入っている人々は、失業率の分母に含まれていない事である。
(黒人の若者は、20代の男性は、10人に1人が刑務所に入っています)
貧困率についても、改善していない。
1975年の貧困率は、黒人は31.3%であった。
それが、1983年には35.7%、2000年には22.5%、2010年には27.4%と推移してきた。
貧困者の中で目立っているのは、「母子家庭」である。
2000年には、18歳以下の黒人のうち、53.3%が片親の家庭で暮らした。
この18歳以下の者たちは、55.6%が貧困ライン以下の生活である。
黒人たちの健康状態は、劣悪なままである。
レーガン政権期の「医療支援予算の大幅カット」で、病院のスタッフは削減され、閉鎖される病院も続出した。
健康保険を持たない黒人たちの疾病率は、特に高い。
医師達も、黒人には真剣に治療しない傾向がある。
1990年の報告によれば、ニューヨークのハーレム居住区の黒人男性の平均寿命は、最貧国の1つであるバングラデシュよりも低かった。
1990年代に入ると、黒人にとっては「エイズ」が重要な問題になった。
現在では、黒人男性が最も深刻な状態にある。
彼らは監獄内でレイプされる事が多く、その過程でエイズに感染する事も多いのである。
1990年代に経済バブルが起きると、黒人の中産階級は貧困地域から脱出していった。
黒人の弁護士・医師・教員らが、郊外の白人地域に移住したのである。
そのため、取り残された黒人たちは、いっそう絶望的な状況に追い込まれた。
購買力のある人々が流出したため、多くの商店が閉鎖し、教会も財政が困難になり閉鎖された。
そしてその地域は、「ゴーストタウン化」した。
(2014.4.28.)