2003年にイラクを攻めて占領した米軍、国連との対立

(以下はテレビ番組『NHKスペシャル イラク復興 国連の苦闘』
2004年4月18日放送からの抜粋
同日にノートにとり勉強した)

2003年8月19日に、イラクにある国連事務所が自爆テロで襲われ、22人が死亡した。
この事件は国連に衝撃を与えた。

実のところ、イラク復興について国連には何の権限もなく、全ては占領軍(米英軍)が決定権を持っていた。

国連安保理決議1483というものがあり、全ての権限を占領軍当局が持つとの決議が可決されていた。
そして米軍がイラクを占領すると、ポール・ブレマー行政官がイラク行政の全てを決め始めた。

国を占領されたイラク人は、アメリカへの怒りを燃やしたが、怒りは国連へも向いた。
イラク人たちは国連はアメリカの味方と考えたのだ。

8月19日のテロ事件を受けて、国連は現在の状況では支援はできないと判断し、イラクから撤退した。

国連は米軍の占領下でも支援できると思っていたが、全く失敗した。

1994年にルワンダで起きた大虐殺の時、虐殺の前に国連のアナン事務総長らは国際社会に介入を求めた。
だが各国の反応は鈍く、結局70万人が殺されてしまった。

これを受けアナン氏はアメリカの助けがないと支援はむずかしいと判断し、以後アメリカ寄りになり、アメリカに妥協力的になった。

🔵国連とアメリカの対立

アメリカ軍がイラクを占領すると、アメリカ政府は2004年6月に主権をイラク人に移議させ、その際に政府や憲法をつくるための選挙はアメリカ主導で行うとの案を国連に提出した。

これに対し国連は、暫定政権を早期に作り、その政権下でイラク人が憲法制定と選挙を行うという独自案を提出した。
するとアメリカ代表のパウエルがこの案に反対した。

アナン事務総長は「悪い決議は人の命を奪う」と述べ、アメリカを激しく非難した。

アメリカが国連案に乗り気でないため、アナンは2003年9月23日に国連総会でこの案を訴えた。

アメリカ政府はアナンの反対を見て修正案を出したが、アメリカ主導な点に変更はなく、アナンは主要15ヵ国が集まる昼食会で演説した。

普段はおとなしいアナン氏が激しい主張をしたので、各国が驚き影響を受け、態度を変えた。

国連憲章の第99条は、事務総長は各国に対して注意を喚起できると定めている。

2003年11月15日にポール・ブレマーとブッシュ大統領は突然に、2004年6月に暫定政権を作る、そして暫定政権が憲法制定と選挙を行う、そして05年12月に新政府が誕生するの新しい案を出した。

しかし暫定政権は占領当局(米軍)とアメリカ政府が選んだ「統治評議会」が主導で作るとし、そこは譲らなかった。

イラク国民の7割を占めるイスラム教・シーア派。
その最高指導者であるシスタニ師は、アメリカ案に反対し、国連に接触した。

統治評議会は国連と会談した。
同時にブレマー氏とも会談したが、ブレマーは「憲法制定を国連主導で行なうのでもよい、憲法作りの調査団を国連が派遣するならしてくれ」と折れた。

アメリカはすでにイラク占領統治の失敗で自信を失っていた。

統治評議会の中でも、国連に調査団を出してほしいとの意見が半数となり、国連は調査団を出す事になった。
この頃、イラク情勢・治安はひどく悪化していた。

ブラヒミ氏が調査団長になってイラク入りした。
シスタニ師など数百人に会い、イラクの人々がどのような憲法を求めているかを探った。

この結果、「アメリカ案は不可能であり、選挙の準備をしてテロリスト達を封じこめるのが良い」と分かった。

2004年4月14日にブラヒミ氏はイラク入りして会見。
武力では解決しないと話し、2005年6月に暫定政権を国建主導でつくる、そして12月にも選挙を行うとの案を出した。

同月16日に米英はこれを支持した。

(以上は2026年5月19日に作成)


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