(『アメリカの時代』ウォルター・ラフィーバー著から抜粋)
ニクソン大統領の訪ソ(1972年5月)では、4つの合意が成立した。
第1の合意は、『SALT1』である。
この協定では、米ソは攻撃用ICBMの数量を次のように決めた。
ソ連の地上配備ミサイルは1410、海上配備ミサイルは950
アメリカの地上配備ミサイルは1000、海上配備ミサイルは710
ソ連の方が数量が多いが、アメリカは次の点によりソ連よりも優位にあった。
① 西ヨーロッパの同盟国が核兵器を持っている
② 戦略爆撃機の数は、アメリカ450機、ソ連は150機だった
③ MIRV(個別誘導の複数目標を狙う弾頭)で圧倒的に優位にあった
MIRVについては、アメリカのミニットマン・ミサイルの場合、1基に3個の弾頭を搭載し、発射後には各弾頭は分離して異なる目標に誘導される。
アメリカは、MIRVには規制を課すことを拒絶した。
後になって、これは重大な誤りだったと判明した。
ソ連は独自にMIRVを開発し、10個もの核弾頭を搭載できるミサイルを保有したからだ。
第2の合意は、『ABM(迎撃ミサイル・システム)の制限条約』である。
米ソのABMの配備は、軍備競争をもたらしていた。
この条約により、両国は自国のABMの配備を2ヵ所に制限した。
1つは首都、もう1つはICBMの発射台を配備した地域、だ。
米ソは1980年代になるまで、この合意を遵守した。
しかしレーガン政権になると、ABM制限条約を破棄しようとした。
レーガンは、「戦略防衛構想(SDI、スターウォーズ)を試みたのである。
(2014.5.13~14.)
(『そうだったのか!現代史2』池上彰著から抜粋)
アメリカとソ連は、1969年11月に、核兵器の数を制限しようとする交渉を初めて行った。
交渉は72年5月にまとまって、『SALT1』と『ABM制限条約』が成立した。
『SALT1』は、核兵器や原子力潜水艦の数に、上限を設けるものである。
これは、削減するための約束ではない。
両国は、際限のない軍拡に歯止めをかけたかったのだ。
『ABM制限条約』は、「相手が自国に向けて発射した核ミサイルは、お互いに撃ち落とさない事にしよう」という奇妙な約束である。
両国は、「相手からのミサイルを撃ち落とす技術が完成したら、報復を心配しなくなり、戦争を始めてしまうのではないか」と考えた。
「相手からの攻撃を防衛する仕組みを放棄することで、自国の防衛を達成する」という、倒錯した発想による条約なのだ。
具体的には、ミサイル迎撃システムの配備は、首都と基地に限定された。
さらに、迎撃ミサイルは100基に制限した。
(2014.5.1.)