(『イスラム・パワー』松村清二郎著から抜粋)
アラビア半島は、古代には10分の9が不毛の地で、辺境の地だった。
肥沃なのは10分の1で、南部とくにイエメン付近に集中していた。
ササン朝ペルシャ帝国とローマ帝国の抗争などによって、シルクロード等の交易路が支障をきたすと、代替の交易路としてメッカとヤスレブ(後のメディーナ)が活況を呈し始めた。
当時の最も貴重な商品は、香料だった。
ローマ帝国は395年に、東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂した。
そして西ローマ帝国は、476年に崩壊した。
西ローマ帝国の崩壊は、当時の世界に大きな経済不況をもたらした。
そして、最も深刻な影響を受けたのが、アラビア半島だった。
アラビア半島は経済的に自活をしておらず、生活必需品すら対外貿易に依存していた。
ムハンマドの祖父の時代は、恐慌の時代だった。
アラビア半島の至上命題は、経済再建だった。
(『イスラム世界のこれが常識』から抜粋)
砂漠の民であったアラブ人たちは、シリアやメソポタミアの人々から軽蔑的に「荒野の人」を意味する「アラブ(ウルビ)」と呼ばれていた。
砂漠の民たちは、「砂漠の船」と呼ばれていたラクダと暮らし、オアシスで農業を営む人々と物々交換をしたり、隊商を襲ったりして、生活していた。
当時のアラブ人の価値観は、「部族に従って生きていく」であった。
厳しい自然環境で生きていたために、仲間意識のある集団に属している事は不可欠だった。
遊牧民にとっては、食糧を得るために他部族を襲うことは、日常だった。
部族の中心には部族長がおり、部族長の号令が掛かれば、命令が間違っていても部族民は従うしかなかった。
それが、「砂漠の掟」だったのである。
また、大部分のアラブ人は、山や石に神が宿ると考える『多神教徒』だった。
(『世界の歴史⑧ イスラーム世界の興隆』から抜粋)
ムハンマドが布教を始めた時代の西アジアは、東方のササン朝ペルシア帝国と西方のビザンツ帝国によって、分割統治されていた。
この2つの帝国は、6世紀半ばまでは平穏な関係だったが、ササン朝のホスロー2世(在位590~628年)が小アジアに侵入すると、30年に及ぶ全面戦争を始めた。
ビザンツ帝国では、北アフリカ総督の息子であるヘラクレイオスが、610年に帝位を奪った。
その後しばらくヘラクレイオス帝は、西方のアヴァール人の対策に追われて、東方に目を向けられなかった。
この間に、ササン朝は小アジアを占領し、614年にはエルサレムを奪って、イエスが磔にされたといわれる「真の十字架」を本国に持ち去った。
後にイスラム教(イスラム軍)が興隆すると、ササン朝は滅亡に追いやられ、ビザンツ帝国はエジプトとシリアからの撤退を余儀なくされる。
両帝国の対立は、メッカの商人には有利に働いた。
戦争で東西を結ぶシルクロードと河川ルートが機能しなくなり、アラビア半島の南部を通るイエメン~メッカ~シリアのルートが活発になったからである。
少年期のムハンマドは、叔父に連れられてシリアへの隊商に参加したが、当時の国際関係を反映する交易活動であった。
アラビア半島の南部に位置するイエメンは、降雨に恵まれるため古くから農業が盛んである。
小麦や大麦、高地ではゴムも生産され、乳香などの香料も採れる。
ローマ人が「幸福なアラビア」と呼んだのは、この南アラビア地方であった。
一方、砂漠に点在するオアシスでは、ナツメヤシ、ザクロ、ブドウ、アーモンド、オレンジ、レモンなどが栽培されていた。
ナツメヤシは、万能の樹木であり、実は滋養に富み、幹は建材になり、繊毛は綱になり、枝は籠材となる。
ブドウやナツメヤシの実からは、酒も作られていた。
アラビア半島の住む人々は、大部分は樹木や泉や石に精霊(ジン)が宿るとするアミニズムの世界に生きていた。
また彼らは、様々な場所に男神や女神の石像を立てる、多神教徒でもあった。
アラブ地域のムスリムたちは、人々がまだイスラームの教えを知らない時代を、「ジャーヒリーヤ時代」と呼ぶ。
ジャーヒリーヤとは、無知で野蛮な状態を意味するアラビア語である。
ジャーヒリーヤ時代のアラブ社会では、略奪が公に認められていた。
略奪のための襲撃で武勇を発揮することは、アラブの誇りとさえ見なされていた。
その一方では、客人を厚くもてなし、弱者を保護する伝統もあった。
「武勇に秀で、弱者には手をさしのべ、客人や旅人を心から歓待する」のが、この時代の理想像であった。
ムハンマド誕生期のアラビア半島には、北アラビア語と南アラビア語があった。
だが南アラブのヒムヤル王国(575年に滅亡)が衰える中で、南アラビア語は廃れていく。
ムハンマドが用いていたのは、ナバタイ文字の北アラビア語である。