(『イスラム・パワー』松村清二郎著から抜粋)
シーア派は、「ムハンマドの従兄弟でありムハンマドの娘ファーティマの婿でもあったアリーの血を引く者が、カリフの後継者であるべきだ」とする。
そして、「アリーの血を引かないウマイヤ朝は打倒されるべきだ」とした。
従ってシーア派は、ウマイヤ朝の打倒に決起したアッバース家への協力を惜しまなかった。
アッバース家は、ムハンマドの血縁でもあった。
しかし、アッバース家がウマイヤ朝を倒して『アッバース朝』を建てると、シーア派は冷遇された。
そこでシーア派は、反体制派の態度を貫くことになった。
アッバース朝10代目カリフのアル・ムタワッキルは、850年にシーア派の大迫害をし、アリーの墓やフセイン(アリーの子)の墓を破壊した。
この迫害を避けるために、シーア派は「仮託(タキーヤ)の原理」を唱え出した。
この原理は、「迫害された時には、偽装的な棄信を認める」というものである。
シーア派はタキーヤにことよせて、表面上はアッバース朝のカリフを崇めつつ、アリーの後裔たるイマームに忠誠を捧げ続けた。
シーア派は、その後ペルシャに定着して、日の目をみる事になる。
ペルシャ人は、アラブの主流であるスンニ派と対抗するために、シーア派となったと見られる。
(アラブはセム系人だが、ペルシャはアーリア系人)
1502年に確立された『サファヴィー朝ペルシャ』は、「7代目イマームのムーサ・アル・カージムの後裔だ」と称し、シーア派を国教として定めた。
この時以来、国王(シャー)は神隠しにあった12代目イマームのムハンマドが救世主として再来するまでの「代理人」とされるようになった。
イスラム教は、シーア派という形でイラン(ペルシャ)に、ようやく根付くことになった。
ペルシャには古来からのゾロアスター教の伝統的な価値観があり、シーア派神学はその価値観を色濃く伝えている。
これは、ドイツに入ったキリスト教が、土俗宗教と交ざって、マリア信仰を強く押し出す形になっている事と共通している。
(2013年4月6日に作成)