初代カリフ アブー・バクル
イラクとシリアの征服に着手する

(『イスラム世界のこれが常識』から抜粋)

ムハンマドの死を知った人々の中には、再び偶像崇拝を行おうとする人もいた。

さらにムハンマドの存命中から、各地には偽預言者たちが登場していた。

アブー・バクルはカリフ就任後に、イスラムを棄てた人や偽預言者を討伐するため、聖戦(ジハード)を展開した。

偽預言者の中で最も頑強だったムサイリマを、イスラム軍の勇将ハーリド・ビン・アルワリードが破り、ムサイリマは戦死した。

それを見た各地の部族は、カリフに従う事を誓った。

ハーリドの武勇もあり、半年でアラビア半島の秩序を回復したアブー・バクルは、今度は外部への侵略をしていった。

ハーリドの部隊は、ササン朝ペルシャの支配下だったユーフラテス川周辺を平定した。

さらにシリア方面へも大部隊を派遣し、ハーリドの部隊はパレスチナの南でビザンチン帝国軍を破った。

アブー・バクルは2年の在位で死去したが、死に先立って、後継者に親友だったウマルを指名した。

(『世界の歴史⑧ イスラーム世界の興隆』から抜粋)

ムハンマドは、632年6月8日に病死した。

彼は生前に後継者を指名しておらず、信者たちは凝然として立ち尽くしたという。

しかし、すぐにウマルはこう述べた。

「ムハンマドは死んだのではない。モーセと同じように、40日後には戻ってくる。」

これに対し、アブー・バクルはこう述べた。

「ムハンマドは確かに死んだのだ。しかし神は生きている。

 ムハンマドは、神の使徒以外の何者でもなく、彼に先立って
 何人もの使徒が死んできたのだ。」

アブー・バクルの発言で、人々の動揺は収まった。

ムハンマドの生前から、メディーナのアンサールは、自分達が陰の存在である事に強い不満を感じていた。

彼らはムハンマドの死を知ると、ムハージルーンへの反発をあらわにし、集会を開いて「後継者はアンサールから選ばれるべきだ」と主張した。

集会に駆けつけたムハージルーンの長老3人(アブー・バクル、ウマル、アブー・ウバイダ)は、必死になって説得した。

説得に成功すると、ウマルはアブー・バクルに対して「忠誠の誓い(バイア)」を行った。

そして、集会に参加したアンサール全員も、バイアをすませた。

翌6月9日には、メディーナのムスリム全員によるバイアが改めて行われ、アブー・バクルが初代のカリフになった。

(カリフとは、「神の使徒ムハンマドの代理人」を意味する言葉である

およそ60歳のアブー・バクルは、ムハンマドの古くからの友人で、温厚な人柄で人々から信頼されていた。

この長老のカリフ就任は、もっとも軋轢の少ない選択であったと思われる。

しかし、クライシュ族のアブー・バクルが選ばれたことで、以後のカリフはクライシュ族の出身者に限られる慣行ができてしまった。

彼は就任時の演説で、「ムハンマドの示した規範にしたがって問題に対処していく」と述べた。

ムハンマドは生前に、各地のアラブ部族と盟約を結んでいた。

この盟約について、「ムハンマドの死によって解消された」と考えて、ウンマ(イスラム共同体)から離脱する者が出てきた。

この離反(リッダ)の最大の勢力は、ハニーファ部族のムサイリマだった。

他にも、女預言者サジャーフを支持して離反する者も出た。

アブー・バクルは、こうした離反をウンマへの挑戦と受け止めて、成敗する事にした。

そして633年に、イスラームに改宗したばかりのハーリド・イブン・アルワリードを討伐軍の司令官に任命した。

新参者を司令官にする事には反対もあったが、ハーリドは激戦の末にムサイリマらを殺害した。

この勝利により、ハーリドは「神の剣」と讃えられた。

ムサイリマが殺されると、各地の勢力はウンマへの復帰を表明し、離反は終わった。

するとアブー・バクルは、今度はイラクとシリアへの征服に着手した。

ムスリムによる大征服時代の始まりである。

ハーリド将軍がイラクに転戦したのは、633年の夏である。

イラクに侵入したアラブ軍は、ティグリス・ユーフラテス河に潤される耕地の肥沃さに、目を見張った。

彼らは樹木がたくさんのイラク平野を、サワード(黒い土地)と名付けた。

当時のアラブ人は、濃い緑色を黒と見なす習慣があった。

ハーリドの率いる軍は、ササン朝ペルシアの首都クテシフォンに迫った。

ところが、ハーリドの許にアブー・バクルの手紙が来て、「シリアに転戦しろ」と命じられた。

ハーリドはシリアに向かい、後任の司令官にはサード・イブン・アビー・ワッカースが任じられた。

シリアは、隊商活動を通じて預言者ムハンマドが知悉していた土地であり、晩年には獲得に並々ならぬ意欲を示していた。

シリアは、地味豊かで、交易も盛んな所である。

バラーズリーの諸国征服史は、こう述べている。

「アブー・バクルは、シリアへ軍を派遣すると決め、アラブの
 民に手紙を送ってジハード(聖戦)を呼びかけた。

 そしてローマ(ビザンツ帝国)の戦利品が手に入ると促した
 (宣伝した)。」

633年秋に、アムル・イブン・アルアーズ他3名の司令官は、それぞれ3千の軍を率いて、シリアに向かった。

パレスチナに侵入したが、ビザンツ側の守りは堅かった。

そこでハーリド将軍が、応援のためにイラクからシリアへの転戦を命じられたのである。

シリアに入ったハーリドは、ダマスクスの近くでガッサーン王国のキリスト教徒軍を撃破した。

アブー・バクルは、624年に死去した。


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