(『イスラム世界のこれが常識』から抜粋)
第二代カリフのウマルは非凡な能力を持った人で、大胆、清廉潔白、公平、聡明であったと言われている。
彼は外部への侵略作戦を続けたが、メディーナを離れずにそこから部隊をリモート・コントロールした。
ウマルは、部隊の指揮官に、一度イスラムを棄教した人々も起用した。
イスラム軍は、東部のメソポタミア方面と、北部のシリア方面の、二方面に進撃していった。
東部方面では、637年夏に勇将ハーリドの軍がササン朝ペルシャ軍に大勝し、イラクの肥沃な地域をすべて占領した。
そして、バスラとクーファに軍の基地を設けた。
イスラム軍は642年にササン朝ペルシャ軍を破り、ササン朝ペルシャの皇帝はホラーサーン地方に逃亡した。
皇帝は、651年にホラーサーンの総督に殺され、ササン朝ペルシャは滅亡した。
北部方面では、636年にハーリドの部隊がビサンチン帝国軍に大勝利し、シリアの都市を次々と降伏させた。
エルサレムも638年に占領し、640年までにシリア全土を掌中にした。
641年に、全シリアの総督にウマイヤ家のムアーウィヤが任命された。
ムアーウィヤは、661年まで務めた。
イスラム軍は、次にビザンチン帝国領のエジプトを攻略した。
641年にアレキサンドリアを陥落させ、次いでバビロンも陥落させた。
642年にはバビロンの東に、フスタートという名のミスル(軍営都市)を建設した。
ここを拠点にして、ビザンチン帝国領の北アフリカへの遠征が行われた。
各地を征服する事で、イスラム軍団の人々は特権階級となった。
征服された人々は、総督の支配下に置かれ、税金(土地税と人頭税)を支払えば信仰や財産を保障され、庇護民(ジンミー)として保護を受けた。
ウマルは、644年にメディーナで、ペルシャ人の奴隷によって暗殺された。
ウマルは死の床で、後継者選びのための6人の委員を指名した。
6人は協議をして、ウスマーンを後継者に選出した。
(『世界の歴史⑧ イスラーム世界の興隆』から抜粋)
第二代カリフのウマルは、初代カリフのアブー・バクルが行ったイラクとシリアへの征服を、引き継いだ。
637年に、イラク征服軍の司令官サード・イブン・アビー・ワッカースは、17000のアラブ軍を率いて進軍し、ササン朝ペルシアの大軍を破った。
642年には、ニワーハンドの戦いで、ササン朝の皇帝ヤズダジルド3世の軍を一蹴した。
ヤズダジルド3世は逃亡を続けたが、651年に部下に殺され、ササン朝は滅亡した。
シリア方面では、アラブ軍は635年9月に、「地上の楽園」の異名をもつダマスクスを占領した。
ハーリド・イブン・アルワリードが率いるアラブ軍は、破竹の進撃を続けて、バールベック、ヒムス、ハマーなどの主要都市を次々と陥れた。
ビザンツ帝国のヘラクレイオス帝は、ハーリドを倒すために5万の兵を率いてヤルムークの渓谷へ進軍した。
ハーリドは2.5万の兵で迎え撃ち、636年8月20日にアラブ軍は大勝した。
逃げ場を失ったビザンツ兵が、次々とヤルムーク渓谷に追い落とされるのを見たヘラクレイオスは、シリアから逃げ去った。
この敗戦で、ビザンツ帝国はシリアの全領土を失い、2度と戻ることはなかった。
エジプトは、豊かな農業国で、その穀物はコンスタンティノープルの巨大な人口を養い、アレクサンドリアには東地中海を制するビザンツ海軍の基地があった。
エジプトの人口の大半は、コプトと呼ばれる単性論派のキリスト教徒だった。
コプトとは、エジプトを意味するギリシア語「アイギュプトス」のアラビア語なまりである。
シリア戦線で活動していたアムル・イブン・アルアースは、639年にカリフのウマルに手紙を送り、エジプト征服の許可を求めた。
アムルは、隊商を率いてエジプトを旅した経験があり、ナイル渓谷の肥沃さを熟知していた。
ウマルは、メディーナの首脳と協議し、アムルの冒険を思い止まらせる手紙を送った。
ところがアムルは、エジプトに進軍し、バビロン包囲へと突き進んだ。
包囲して7ヵ月後の641年4月に、バビロン城は陥落した。
城内には、イスラム軍の「神は偉大なり」の雄叫びが響きわたった。
641年11月には、軍港都市アレクサンドリアも、交渉の結果アラブ軍に明け渡された。
アムルは、ウマルに宛てて報告した。
「アレクサンドリアでは、風呂付きの邸宅4000戸と、人頭税を支払う4万人のユダヤ教徒と、400の遊興所を獲得しました。」
報告をうけたウマルは、預言者のモスクで神への感謝の祈りを捧げたという。
こうした大征服が可能だったのは、イスラム軍が規律ある軍隊であったからである。
イスラムの征服では、3つの選択肢が相手に与えられた。
① イスラームに改宗する
② 人頭税を支払って従来通りの信仰を保持する
③ ①と②を拒否して、イスラム軍と戦う
③の場合、生命の安全は保障されないのが原則であった。
ウマルは、クライシュ族の出身のムハージルーンである。
かつてはメッカでムハンマドを迫害し、のちに改心してムスリムとなり、イスラーム国家の建設に力を尽くした。
そのため、「イスラームのパウロ」と評されている。
彼は、イラクやシリアへの征服を推し進め、カリフの代わりに「信徒の長」(アミール・アルムーミニーン)の称号を採用した。
「信徒の長」には軍司令官の意味があり、ウマルに続くカリフたちもこの勇ましい称号を好んで用いたといわれる。
バドルの戦い(624年)の後、ムハンマドは「自らに戦利品の5分の1の権利がある」と定めた。
この権利はカリフに受け継がれ、征服地の拡大につれて莫大な戦利品がメディーナに運ばれてきた。
残りの5分の4は戦争に参加した兵に分配されたが、獲得した土地はイスラム共同体のものとされた。
ウマルは征服が一段落すると、「戦利品の獲得と分配は改めるべきだ」と考えた。
そして、征服地には徴税官を派遣し、兵士には一定の俸給を支払うことにした。
この新制度を行うために設けたのが、「官庁(ディーワーン)」である。
官庁制度は、後のイスラム国家にも受け継がれていく。
ウマルは、イスラーム国家のために新しい制度と組織が必要であることを、十分に理解していた。
だが、アラブ戦士たちにとってみれば、俸給制度への変化には不満があった。
この不満が、第3代カリフの時代に爆発する。
大征服をしてイラク・イラン・シリア・エジプトを支配下に入れたアラブ軍(イスラム軍)は、各地に軍隊の駐屯地を造った。
既存の都市を指定する場合もあったが、いずれも『軍営都市(ミスル)』と呼ばれている。
イラクのバスラとクーファ、エジプトのフスタートは、新たに建設されたミスルである。
アラブ軍は、家族を伴って征服地に移住したから、ミスルは一大消費地として発展した。
イラクの歴史家サーリフ・アリーは、「ヒジュラから100年のイスラム史は、ミスルの歴史である」と述べている。
ウマイヤ朝の初期までに、20万人のアラブ人がバスラに移住し、14万人がクーファに移住したと推定されている。