(以下は本『イスラム世界のこれが常識』から抜粋)
第三代カリフのウスマーン(在位644~656年)は、アラビア半島の有力者であるウマイヤ家の長老だった人である。
ウスマーンもそれまでのカリフと同じく、イスラム教国の支配地拡大を目指した。
東部では、アフガニスタン方面へ攻め込んだ。
西部では、649年にキプロス島を占領し、652年にはビザンチン帝国海軍を撃破した。
650年頃には、イランの大部分、アフガニスタン西部、コーカサス地方、リビア東北部を支配地に加えていた。
ウスマーンは、各地の総督にウマイヤ家の一族を起用した。
やがて、イスラム軍の征服活動は上手く行かなくなった。
戦争勝利による戦利品収入が減ると、イスラム内部の争いが生まれてきた。
656年に、不満を持っていたイスラム戦士たちが、メディーナの自宅でコーランを読んでいたウスマーンを殺害した。
殺害に及んだのは、初代カリフだったアブー・バクルの子らであったと言われている。
残されたウマイヤ家の人々は、同家の有力者であるシリア総督ムアーウィヤの下へ身を寄せていった。
第四代カリフには、ムハンマドのいとこで、ムハンマドの娘ファーティマの夫でもあったアリーが選出された。
(以下は『世界の歴史⑧ イスラーム世界の興隆』から抜粋)
644年に第2代カリフのウマルが亡くなると、クライシュ族のウマイヤ家の当主ウスマーンが、ウマルの指名に基づいて第3代カリフとなった。
ウスマーンはムハンマドとほぼ同い年の、長老であった。
(ムハンマドは570年頃の生まれなので、この時のウスマーンは70歳代の前半になる)
ウスマーンは、コーランの編纂に着手し、この時にコーランの原型が作られた。
この時代になると、イスラーム軍団の大征服は一段落して、兵士への俸給制度の導入がさらに進行した。
下級兵士の生活は苦しくなり、「征服への貢献度に比べて、報酬が少ない」と感じ始めた。
さらにウスマーンのウマイヤ一族びいきも、度を越していた。
イラクに駐留するアラブ兵たちは、現金(征服で得たカネ)の分配を求めたが断られてしまった。
そこで一部の急進分子はメディーナに押しかけ、カリフの館を襲ってウスマーンを殺した。
(以下は『紙の道』陳舜臣著から抜粋
2026年3月26日に作成)
第3代カリフのウスマーンは、ウマイヤ家の人で、クライシュ族の人であり、ムハンマドの娘ルカイヤを妻とした。
ルカイヤが亡くなると、ムハンマドのもう1人の娘ウンム・クルスームを妻とした。
初期のカリフたちは皆、ムハンマドと血縁を持っていた者たちである。
第3代カリフのウスマーン(在位644~656年)の時期に、コーランの編纂が再び行われた。
編纂をしたのは、まだ生きていたザイド(ムハンマドの文書係だった人)と、クライシュ族(ムハンマドの出身族)の3人の、計4人である。
コーランはアラビア語で書かれているが、各地の方言があって読誦のされ方はまちまちだった。
そこでメッカの方言、特にクライシュ族の使う発音に統一したのである。
現在のコーランの形は、ウスマーン時代の651年に完成した。
この時のコーランは4部(4冊)つくられたという。
このうちの1冊がタシケントに現存するコーランと言われ、そのコーランにはシミがある。このシミはウスマーンが暗殺された時についた彼の血だと言い伝えられている。