(『イスラム世界のこれが常識』から抜粋)
アリーが暗殺されると、シリア総督だったウマイヤ家のムアーウィヤにとって、ライバルはいなくなった。
ムアーウィヤはすでにカリフを僭称していたが、661年に正式にカリフとなった。
この後、750年にアッバース朝に滅ぼされるまで、ウマイヤ家による支配の時代となる。
ムアーウィヤ以後の14代のカリフは、すべてがウマイヤ家の出身者で占められるため、この時代は『ウマイヤ朝』と呼ばれている。
ウマイヤ家はアラブ人なので、正統カリフ時代とウマイヤ朝時代を合わせて、『アラブ帝国時代』という。
(『世界の歴史⑧ イスラーム世界の興隆』から抜粋)
ウマイヤ家の当主ムアーウィヤは、第4代カリフのアリーが存命中の660年に、エルサレムで「私はカリフである」と宣言した。
翌661年にアリーが暗殺されると、ムアーウィヤは多くのムスリムから忠誠の誓い(バイア)を受け、正式のカリフと認められた。
これが、『ウマイヤ朝』の始まりである。
ムアーウィヤの父は、預言者ムハンマドに敵対したクライシュ族のアブー・スフヤーンである。
その子であるムアーウィヤが敬虔なムスリムであったかは、意見が分かれている。
彼は普段は温厚で、めったに怒りを見せなかった。
その一方で、権力を誇示した。
シーア派の著名な歴史家ヤークービー(897年没)は、次のように評している。
「ムアーウィヤは、イスラーム史上で初めて警察や門番を用いた。
キリスト教徒に書記の仕事を任せた。
王室にカーテンを下ろし、警護の役人に槍を持たせ、
臣民を見下したのである。」
つまりムアーウィヤは、ムスリムの指導者としてではなく、君主としてふるまった。
キリスト教徒を書記にしたのは、彼の拠点であるシリアではキリスト教徒が多数を占めていたからだが、ムスリムには評判が悪かった。
ウマイヤ朝が首都に選んだのは、ダマスクスであった。
この町は、前10世紀から続く古都である。
ムアーウィヤは、東南部に宮殿を建設したという。
ワリード1世は、聖ヨハネ教会を改修し、現在にのこるウマイヤ・モスクを造った。
ダマスクスは古来から、自然条件に恵まれた快適なオアシス都市だった。
町の東南部には緑豊かなグータの森がある。そこでは様々な果物が採れる。