(『イスラム世界のこれが常識』から抜粋)
ウマイヤ朝の初代カリフとなったムアーウィヤは、首都をシリアのダマスカスに移した。
そして、イランなどに版図を拡大し、各地にミスル(軍営都市)を建設していった。
ムアーウィヤは後継者に、息子のヤジードを指名した。
680年にムアーウィヤが死去し、ヤジードがカリフになると、シーア派の人々はアリーの次男であるフサインを担ぎ出した。
しかしフサインは、同年10月10日(ヒジュラ暦1月10日)に、ヤジード軍に殺された。
これが、シーア派の歴史上で有名な『カルバラーの悲劇』である。
1月10日はアーシュラーと呼ばれているので、毎年この日が来るとシーア派の人々はフサインの殉教を悼むのである。
一方、656年のラクダの戦いで戦死したズバイルの息子であるイブン・ズバイルは、人々の支持を集めるようになっていった。
ヤジードが急死して、ヤジードの息子がカリフに就くと、イブン・ズバイルはこれを拒否して「私がカリフだ」と宣言した。
シリアを除くすべてのイスラム領が、イブン・ズバイルに忠誠を誓い、内乱に突入した。
カリフになったヤジードの息子は、数ヶ月で死去した。
マルワーンが新カリフになったが、半年後に死亡してしまう。
マルワーンの息子のアブドゥルマリクが後を継いだが、各地で内乱は続いた。
692年に、アブドゥルマリク軍がイブン・ズバイルを戦死させて、内乱はようやく終結した。
ムアーウィヤの死からイブン・ズバイルの戦死までの動乱は、『第二次内乱』と呼ばれている。
(『世界の歴史⑧ イスラーム世界の興隆』から抜粋)
683年の秋に、ウマイヤ朝の第2代カリフのヤズィードは突然に亡くなった。
まだ10代の息子ムアーウィヤ2世が後を継いだが、彼は数十日後に急死してしまった。(暗殺か?)
こうなると、情勢は混迷してきた。
ラクダの戦い(656年)で、反アリー軍の中心にいたズバイル。
彼とアブー・バクル(初代カリフ)の長女との間に生まれたのが、イブン・ズバイル(622~692年)である。
イブン・ズバイルは、ムアーウィヤ2世が亡くなると、「私がカリフである」と宣言し、多くの民から忠誠の誓い(バイア)を受けた。
これにより、『第二次内乱(683~692年)』が始まった。
685年には、イラクのクーファでシーア派のムフタールが、アリーの息子ムハンマド(悲劇の死をしたフサインの異母兄弟)を担ぎ出した。
クーファ総督を追い出して勢力を拡大したが、687年にイブン・ズバイルの弟ムスアブによって鎮圧された。
こうした混乱の中、ダマスクスではマルワーン家(ウマイヤ家の分家)のアブド・アル・マリク(アブドゥルマリク)が、685年にウマイヤ朝の第5代カリフに就いた。
アブド・アル・マリクは、メッカに居るイブン・ズバイルの討伐を決め、692年に勇将ハッジャージュ・イブン・ユースフを司令官に任命した。
ハッジャージュ軍は、6ヵ月にわたってメッカを包囲し、投石機を使って攻撃した。
そしてイブン・ズバイルを殺し、第二次内乱を終わらせた。