(『イスラム・パワー』松村清二郎著から抜粋)
571年に、ムハンマドはメッカに生まれた。
当時のメッカは、偶像崇拝をする多神教徒の「コライシュ族」が支配していた。
ムハンマドは、コライシュ族の一員だった。
コライシュ族は、メッカのカーバ神殿の鍵を預かる管理者であり、メッカの隊商交易を支配していた。
イスラム学者のモンゴメリー・ワットによれば、当時の一部のコライシュ族は「漠然たる一神教」を信仰していたという。
アッラーフ(アッラー)という神は、ムハンマド以前にも知られていた。
ムハンマドは、単なる宗教改革ではなく、メッカの人々の生活態度を改革しようとしていたと解釈できる。
(『イスラム世界のこれが常識』から抜粋)
ムハンマドから数えて11代前の祖先は、クライシュという人物であった。
このクライシュから氏族が分かれていき、子供たちは『クライシュ族』と呼ばれるようになった。
クライシュ族はアラビア世界の名門となり、5世紀にはクライシュ族のクサイイがメッカの支配者となり、メッカのカーバ神殿を再建したという。
クライシュ族はカーバ神殿の管理者となり、隊商を率いる大商人にもなっていった。
クサイイの孫ハーシムから、『ハーシム氏族』が分かれた。
ハーシムの子であるアブドル・ムッタリブは、クライシュ族の中でも崇められた人物で、メッカを59年間に渡って支配した。
アブドル・ムッタリブには3人の男子がおり、そのうちの1人アブドゥラーがムハンマドの父親である。
アブドル・ムッタリブの男子の残り2人は、アル・アッバースとアブー・ターリブである。
アル・アッバースは、後のアッバース朝の創始者の祖先にあたる人物である。
アブー・ターリブは、第4代カリフとなるアリーの父親である。
アブドゥラーは、ヤスリブ(後のメディーナ)のアーミナという女性と結婚し、ムハンマドをもうけた。
しかし、アブドゥラーはムハンマドが生まれる前に他界し、アーミナもムハンマドが6歳の頃に他界した。
ムハンマドは孤児となり、祖父のアブドル・ムッタリブに引き取られた。
その祖父も、ムハンマドが8歳の時に他界した。
その後は、叔父のアブー・ターリブに引き取られ、叔父が商人だったために商人になるように育てられていった。
(『世界の歴史⑧ イスラーム世界の興隆』から抜粋)
ムハンマドが生まれ育ったメッカは、イエメンやシリアと交易をする、商人の町だった。
コーランを紐解けば、横溢しているのは「商人の倫理」であり、遊牧民の倫理ではない。
イスラム教の最後の審判では、すべての人は生前の善行と悪行が商品を計るように秤にかけられ、天秤がどちらに傾くかで天国行きか地獄行きかが決められる。
イスラム教は商人たちの宗教であり、そのために商人の地位は高くて、遊牧や農業よりも尊ぶべき職業と見なされる。
(この点で、仏教やキリスト教などとは著しく異なる)
メッカは小さなオアシスであり、周囲を岩山に囲まれ、農耕には不向きだった。
クライシュ族がこの町に住み着いたのは、5世紀末だった。
ムハンマドの5代前のクサイイは、一族を率いてメッカを征服し、カーバ神殿の守護権を手にした。
クライシュ族は、マフズーム家、アブド・シャムス家(後のウマイヤ家)、ハーシム家、アサド家などに分かれていき、ムハンマドはハーシム家に生まれた。
ムハンマドが生まれた頃には、クライシュ族は冬には南のイエメンへ、夏は北のシリアへ、隊商を派遣していた。
すでにこの時期に、カーバ神殿にはアラビア半島の各地から巡礼者が集まってきていた。
巡礼者の目当ては、メノウ石の偶像フバルだった。
ムハンマドは570年頃に生まれた。
誕生の時にすでに父はなく、ハーシム家の長であった祖父のアブド・アル・ムッタリブの保護の下で、母アミーナの手ひとつで育てられた。
ムハンマドに兄弟はなく、母と2人で暮らした。
母は6歳になった頃に亡くなり、2年後にはムッタリブも亡くなった。
その後は、ハーシム家の家長を継いだ叔父のアブー・ターリブに引き取られた。
彼の少年時代について、これ以外の事実はほとんど知られていない
伝承学者イブン・サード(845年没)は、成人後のムハンマドを次のように伝えている。
「肌は赤みがかった白で、目は黒く、頭髪は長く柔らかであった。
口ひげとあごひげは共に濃く、薄い毛が胸から腹まであった。
肩幅は広く、足取りはしっかりしていて、歩き方はまるで
坂道を下るようであった。
背丈は、低くもなく高くもなかった。
いつも丈の短い木綿の服を身につけ、バターとチーズは好き
であったが、トカゲは食べなかった。
よく悲しげな顔をすることがあったが、思索にふける時は
いつまでも黙っていた。
人に対して誠実であり、進んで人助けを行い、常に優しい
言葉をかけるのを忘れなかった。」
この伝承は、ムハンマドが亡くなって200年後にまとめられたものだが、なかなか興味深い。