(『イスラム世界のこれが常識』から抜粋)
ウマイヤ朝は勢力を拡大させ、711年にはイベリア半島に攻め込み、一部を占領した。
712年には、インドのシンド地方を征服した。
第5代カリフ・アブドゥルマリクの治世中には、アラビア語が公用語となり、独自の貨幣として金貨(ディナール)と銀貨(ディルハム)を鋳造し流通させた。
ウマイヤ朝は、従来はアラブ人のイスラム教徒だけを軍人にしていた。
しかし領土を拡大するなかで、非アラブ人も徴用するようになった。
第8代カリフのウマル2世は、「イスラム教徒であればアラブ人も非アラブ人も差別しない」という政策を採った。
(2013年5月15日に作成)
(『世界の歴史⑧ イスラーム世界の興隆』から抜粋)
第5代カリフのアブドゥルマリクは、『アラブ式の貨幣を鋳造して、流通させること』を決定した。
つくられたのは、表にコーランの文句(言え、彼はアッラーフ、唯一なる御方である)を刻み、裏にはカリフの名を刻んだ、金貨と銀貨である。
これに習って、イラク総督のハッジャージュも同じ形式の貨幣を鋳造した。
ウマイヤ朝のディーナール金貨とディルハム銀貨の2本位制は、後世にはかり知れない影響を与えた。
官人や軍隊への俸給が、現金で行われるようになったからである。
俸給の現金支払いは、当時のヨーロッパや中国では到底不可能であった。
『貨幣経済の高度な発展』こそが、イスラーム文明の第1の特徴といっていい。
俸給支払いを担当する官庁は、軍務庁だった。
その他にも、租税庁、文書庁、印璽庁などが創設された。
これらの中央官庁は、地方に出先の官庁をもち、それらの支所は地方総督の管理下におかれた。
行政を円滑に行うには、地方ごとに異なる言語を、アラビア語に統一する必要があった。
アブドゥルマリクは、これにも着手した。
697年にイラクの官庁で、ペルシア語からアラビア語への切り替えが実施された。
700年にはシリアでも、ギリシア語からアラビア語に変更された。
705年にはエジプトで、コプト語からアラビア語に変更された。
イランでは742年に、ペルシア語からアラビア語に変更された。
行政のアラブ化により、官吏はアラブ人が重用される事になった。
ウマイヤ朝のアラブ人第一主義は、地方行政にも及んだのである。
ウマイヤ朝は、アラビア語をイスラーム世界の共通語へと育て上げていった。
バスラとクーファでは、アラビア語の文法を体系化するために、学者たちが文法の精緻さを競い合った。
一方メディーナでは、ムハンマドの言行の伝承(ハディース)の収集が行われた。
クライシュ族出身のズフリー(742年没)は、膨大な数の聞き取り調査をして、ハディースを初めて書物にまとめた。
この後、ハディースはコーランに次ぐ法源と定められ、ハディースの真偽を検討するのはイスラーム学の基礎となった。
イラン南西部の町ジュンディーシャープールには、ササン朝ペルシアが建てたギリシア学術の研究所があった。
ここを接収したアラブ人は、活動を継承して医学や天文学の書物を翻訳した。
エルサレムに今もある「岩のドーム」は、アブドゥルマリクが命じて建設された。
687~692年にかけて建てられたが、イランのタイル職人、ビザンツのモザイク師、エジプトの木彫り工などが参加し、様々な文化を融合した傑作である。
このドームに覆われている聖石は、表面にムハンマドの足跡が残っていると信じられている。
(ムハンマドはエルサレムに行った事はないが、コーランの
一節を根拠に、神の力で1度だけ行ったとされ、その時に
足跡を残したという。
極めて強引な解釈である。)
(2016年3月2日に作成)