(『イスラム世界のこれが常識』から抜粋)
740年代に入ると、「カリフは、預言者ムハンマドの属していたハーシム家の出身でなければならない」という考え方が広まってきた。
預言者ムハンマドの叔父アル・アッバースの子孫である「アッバース家」も、こうした考え方を持っていた。
アッバース家は、イランのホラーサーン地方に、アブー・ムスリムなる人物を派遣した。
アブー・ムスリムは、747年6月にホラーサーンで武装蜂起をした。
一方で、アリー家(シーア派)は、アリーの子孫をカリフに擁立しようとした。
749年10月に、ホラーサーン軍は「アッバース家の当主であるアブル・アッバースをカリフにする」と宣言した。
アブルは、自分の叔父を軍の司令官にし、ウマイヤ朝の討伐を命じた。
叔父は各地でウマイヤ軍を破り、750年にウマイヤ朝のカリフであるマルワーン2世を殺した。
こうして、ウマイヤ朝は滅んだ。
だが、ウマイヤ朝の第10代カリフだったヒシャームの孫が、モロッコに逃れてからスペインに渡り、756年にスペインで『後ウマイヤ朝』を興した。
アブル・アッバースは、『アッバース朝』の初代カリフになった。
アブルが754年に死去すると、兄のマンスールが2代目のカリフになった。
マンスールは、叔父とアブー・ムスリムを殺した。
アッバース朝の体制が完成したのは、マンスールの治世下である。
マンスールは、首都としてバグダッドを建設し、円形都市に造り上げた。
中心部に宮殿と礼拝堂を設け、南部にはスーク(市場)を設けた。
(2013年5月15日に作成)