(『イスラム世界のこれが常識』から抜粋)
9世紀末~10世紀初めの頃は、アフリカや中国との海洋貿易が発達して、バグダッドは世界各地から集まってくる商品の取引で賑わった。
ところが、膨大な数の官僚と軍人への給料支払い、地方の反乱による税収減、反乱鎮圧のための戦費によって、アッバース朝の国家財政は10世紀前半には破綻してしまった。
不満を持った軍人たちの反乱が相次ぎ、936年にはトルコ人の軍人イブン・ラーイクは大アミール(大将軍)に任命され、カリフから全権を奪ってしまった。
964年には、イランのギーラーン地方のダイラム人であるブワイフ家の3兄弟が、バグダッドを占領して大アミールに任命された。
これが、シーア派政権の『ブワイフ朝』の始まりである。
ブワイフ朝は、アッバース朝のカリフを名目の存在として残した。
ここに、行政・軍事面を担当するシーア派のブワイフ朝政権と、宗教的権威としてのスンニ派のアッバース朝カリフとが、併存する形となった。
○村本のコメント
この併存は、どことなく日本の武家政権と朝廷との併存に似ている気がします。
(2013年5月15日に作成)
(『総図解世界史』から抜粋)
カスピ海の南西岸の山岳地帯に住んでいたダイラム人は、9世紀後半からシーア派に入宗する者が増え、マムルーク(奴隷)としてイスラーム世界に広がっていった。
そして、ダイラム人の族長ブワイフの3人の息子は、イランを中心にして独立し、『ブワイフ朝』を建国した。
末弟のアフマドは、バグダッドを占領して、アッバース朝のカリフから大アミールに任命された。
2人の兄も、カリフから称号を与えられた。
ブワイフ朝は、シーア派の12イマーム派に属していたが、スンニ派のカリフを保護することで支配を正当化した。
宗教的権威はカリフ、世俗的権威はアミールという、二重構造が生まれた。
この構造は、次のセルジューク朝以降も受け継がれる。
ブワイフ朝では、全土を支配する者はおらず、ファールス、ケルマーン、ジバール、イラクの4地域に分割して統治され、一族が統治権を分け合った。
しかし、イクター(土地とその徴税権)の保有者と総督の対立や、王族の内紛などにより、衰退に向かった。
都市には、自立的な集団「アイヤルーン」が跋扈した。
ブワイフ朝の末期は、ファールスの一部で命脈を保つ状態だった。
そして、セルジューク朝がバグダッドを占領すると滅んだ。
(2016年2月24日に追記)